日和は今、目の前に立ち塞がる重厚なドアの前に、緊張の面持ちで立っていた。
「うぅ……何で私が……」
 そう言って溜息を吐くと、目の前のドアに掲げられているプレートを睨み付けた。

 “専務室”

 それは他でもない、高神一也専務の専務室のドアだった。


≪恋の始まり≫


 数日前、急に“高神専務付き秘書を命じる”との辞令が出て、日和はすぐに上司に理由を聞きに行った。
「あの、どうして私が専務付きの秘書なんでしょうか?」
「そうは言われてもねぇ……人事部を通しての正式な辞令だし。まぁ、君ならどこでも上手くやれると思うよ。頑張りたまえ」
「……はぁ」
 だが、納得の行く理由は返ってこなかった。

 しかし辞令は下されたのだ。受けないのであれば、辞めるしかない訳で。
 日和は急いで私物の整頓や、業務の引継ぎをしながら考える。

 高神専務って、この間の人よね……?
 どうして私なんかを……。

 そう考えてみるものの、一也の事をよく知らない日和には、全く分からなかった。


 そうして現在、冒頭の状況に至った訳なのだが。
 いつまでもドアの前で立ち尽くしている訳にも行かず、覚悟を決めると日和はドアをノックする。
「どうぞ」
 そう声が返ってきてから、日和は思い切ってドアを開ける。
「ほ、本日付で高神専務付きの秘書を命じられた、里永日和ですっ。よろしくお願い致します!」
 一息にそう言って頭を下げると、くすくすと笑い声が聞こえた。
 顔を上げると、そこには両肘を机に付けて、柔らかな笑みを浮べた一也がこちらを見ていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。こちらこそこれからよろしく」
 そう言われて少なからず日和は気持ちを落ち着けるが、すぐに不安そうな顔で言う。
「あの、でも私、秘書の経験なんて全然なくて……」
「それについては心配しなくてもいい。スケジュールの管理は自分でできるし、雑務をこなしてくれればいいから」
「雑務、ですか?」
「君の主な仕事内容は電話や来客の応対。それと、私の一日のスケジュールを君のパソコンにも送るから、それを見て会議の時間などを教えてくれればいい。 あとは……簡単な書類作成と、資料室から私の指示する資料を持ってきてもらうなどだ」
 そういった内容なら、総務部でも経験済みなので、日和はホッとした。
「分かりました」
「基本的には、同じ部屋で作業してもらう。君の机はそこだ」
 示された方を見てみると、ドアの脇に机とPCが一式揃えられていた。
「分からない事があれば、その都度聞いてくれればいい。ここまでで何か質問は?」
「ありません」
「では仕事を始めよう」

 そうして始まった仕事は、初日からとんでもなく忙しかった。

 そうして定時になって。
 だが一也は一向に仕事を終える様子が無い。
 どうすればいいのだろうと思っていると、一也から声が掛かった。
「里永さんはもう上がるといい」
「え、ですが……専務は?」
「私はもう少し仕事を片付けてから帰るよ。ご苦労さま」
「はい。では専務、あまり無理をなさらないで下さいね?」
「ああ」
 一也は少し前に疲労で倒れたばかりだ。
 だが向けられた柔らかな笑みに、日和は多少気掛かりではあったが、仕事が初日という事もあってその言葉に甘えさせてもらう事にした。


 次の日からも、仕事は毎日が目の回るような忙しさで。
 日和がそう感じる以上に一也は忙しいのだろう。
 だが今まで一也は、日和が今やっている分の仕事も一人でこなしていたのだ。
「……確かに、これじゃあ疲労で倒れるはずよね……」
 そう呟いて、日和は仕事中の一也をチラッと横目で伺い見る。

 仕事中の一也は、とても近寄り難い雰囲気を発している。
 それは今も同じで。
 だが日和と話す時は、その表情がごく稀に柔らかいものへと変化する。
 その変化は、いつも日和をドキドキした気持ちにさせるのだが。

「……普段とギャップがありすぎるから、よね?」
 日和は自分にそう言い聞かせた。


 時々日和は、一也に食事に誘われる事もあった。
 そういう時の一也は、いつも柔らかで優しげな表情で。
 普段の近寄り難い雰囲気の一也は、仕事の出来る上司、といった感じで、尊敬は出来るが緊張もする。
 だけど、柔らかい表情をしている時の一也は。
 とても親しみに満ちていて、何だか身近な人に感じる事ができる。
 ……それでどうしてドキドキするのか、日和にはよく分からなかったが。


 そんなある日。
「あれ……携帯がないっ!」
 定時で仕事を終えて家に帰ってから、日和は携帯がない事に気付いた。
「どうしよう、どこかで落としたのかな……」
 慌てて日和は自分の携帯に電話を掛ける。
「変な人に拾われてなければいいんだけど……」
 そうして数十回程コールして、どこか……例えば会社のロッカーとかに置き忘れただけかも……と思った時。
『はい』
 男の人が電話に出た。
「あ、あのっ!その携帯の持ち主なんですが……」
『……里永さん?』
「え……もしかして、専務、ですか……?」
『ああ。ずっと鳴っているから、出ようかどうしようか迷ったが……』
 その言葉に、日和は眉を寄せる。
 時間は夜の八時半近くになろうとしているのだが。
「専務……今どちらに?」
『まだ会社で仕事中だが……』
 その言葉に日和は頭が痛くなる。
「……今からそちらに向かいます」
『え?今、何と……』
 一也が何か言いかけたが、日和はお構いナシに電話を切ると、さっと身支度を整えて家を出る。
 そうして通りに出てタクシーを捕まえると、会社に向かった。

「……専務。こんな時間まで何をされていたんですかっ」
 会社に着いて、日和は専務室のドアを開けるなりそう言った。
「何って……仕事だが。しかし、本当に来るとは思わなかった」
 そう言う一也の机には、いくつか書類が広がっていた。
「そんな事はどうでもいいんです。まさか、私を食事に誘って下さった日以外は、いつもこんな時間まで残業されてたんですかっ!?」
 日和が怒ったようにそう言うと、一也はスッと視線を逸らした。
「……まぁ」
「“まぁ”って何ですか!専務は一度疲労で倒れてるんですよ!?私、その時言いましたよね?“自分の体は労わらないと”って。なのに酷使してどうするんですか!」
「……以前程、無理はしていないつもりなんだが……」
 そう言う一也に、日和は呆れる。

 ダメだ、この人。
 すっごい放って置けないっ!

「取り敢えず、当分残業はダメです。定時になったら、無理矢理にでも仕事終わらせますから」
「しかし……」
「しかしじゃないです。本当なら2〜3日お仕事休んで、ゆっくり疲れを取るべきなんですから」
 日和がそう言うと、一也は少し考える素振りをしてから言った。
「なら……君が傍にいてくれないか?」
「……はい?」
 一也の言った言葉の意味がよく分からなくて、日和は首を傾げる。

 傍にいてくれって……今も一緒に仕事してるのに?
 わざわざ何でそんな事を言うんだろう、この人……。

 日和がそう思っていると一也は席を立ち、彼女のすぐ傍までやってきた。
「君がずっと傍にいてくれるなら……無茶はしない」
「専務……?仰っている意味がよく分かりません」
 本当に分からないといった感じで日和がそう聞くと、一也はフッと哀愁を帯びた瞳を向けて言う。

「その敬語をやめて、私の事を一也と名前で呼んで……君に触れたいと言ったら、君は怒るか?」

 一瞬。
 日和は何を言われたか分からなくなって、頭の中が真っ白になる。
 だが一也は続ける。

「君を部下として手元に置いて。でもそれからどうすればいいか分からなくなった。最初は一緒にいるだけでよかったのに、どんどん自分が欲張りになっていくのを感じた。 敬語も、専務と呼ばれるのも、他人行儀に感じられたから本当は凄く嫌で。毎日食事に誘って嫌われるのも嫌だったし……だから仕事に走った。仕事に没頭すれば、取り敢えず 余計な事は考えないで済むからな」

 一也のその言葉に、日和は呆然とする。
 突然言われた事に驚きすぎて、上手く頭の中で処理できないのだ。
 だがそんな日和を見て、一也は顔を歪める。
「迷惑、か……?」
 そう言われて日和はハッと我に返る。
「あ、あの……つまり、どういう事ですか?私、何だか上手く頭の中で処理できなくて……」
 申し訳なさそうにそう言う日和に一也は目を瞠るが、すぐに柔らかい笑みを浮べる。

「君が好きだ。だから……君さえよければ、私と付き合ってくれないか?」

 そう言った一也は、いつもと違ってとても自信無さ気で。
 日和は、そんな一也を可愛いと思ってしまった。
 だが言われた言葉の内容を理解して、一気に顔を真っ赤にさせる。
「専務が、私を……?」
 日和がそう言うと、一也は少しムッとした顔をする。
「……ここで“専務”はないだろう」
「え、あ、すみません……えっと……一也、さん……?」
 日和がそう言うと、一也は突然日和をギュッと抱き締めてきた。
 その突然の出来事に、日和は頭の中がパニックになる。

 急に、何っ!?
 私、今、専務の腕の中……?

 状況を把握した所で、日和はかぁっと自分の頬が赤くなるのを感じた。
 顔が今、物凄く熱い。
「は、離して……」
 日和がそう抵抗しようとすると、耳元に一也の吐息が掛かった。

「日和……」

「……っ」
 その声は掠れ、妙に色気を感じる。
 その事に日和は、体中がざわりと反応したのを感じた。
 と、急に一也が体をスッと離し、日和はドキドキを抑える為に深く息を吐いた。
 だがその事を何か勘違いしたのか、一也は傷付いたような表情を浮かべる。
「……急に、すまなかった。今日の事は忘れてくれ」
 そう言うと、一也は部屋を出て行こうとする。
「え、待って下さいっ」
 慌てて日和は一也の腕にしがみ付くようにして引き止める。

「あのっ、あの……私、まだ混乱してるんですけど……多分専……一也さんの事、嫌じゃないです。だから……時間をくれませんか……?」

 一生懸命な様子でそう言う日和に、一也は情けない顔で言う。
「嫌いになったんじゃ、ないのか……?」
「えと……何を勘違いされたか知りませんが、そんな事一言も言ってないじゃないですか」
 日和がそう言うと、一也はホッとしたようなくしゃっとした笑みを浮べた。


 結局、暫くは様子見という事になって。
 だけど、一也は以前より日和に笑顔を見せて積極的にアプローチするようになって。
 そんな一也に日和は押され気味だったが、まんざらでもなさそうだった。


 ちょっとした変化やギャップにドキドキして。
 次第に相手が気になっていく。
 それは立派な、恋の始まり。


=Fin=

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  ・里永 日和(さとなが ひより)……OL。突然の移動で一也の秘書になる。

・高神 一也(たかがみ かずや)……親会社からの出向専務。


鹿室さん、サイト二周年おめでとうございます!
何だか長くなってしまったんですが、7万HIT記念「その心地良さに」の続きです。
今回は日和視点でw
……さり気なくくっ付いてませんよね、この二人(笑)
拙い内容ですが、煮るなり焼くなりご自由に☆
でわ、これからも素敵なお話楽しみにしています^^