≪マイペースで≫
とある家のリビング。
「じゃあ出掛けるからお願いね。それと、二階には絶対に上がらないでね」
「はい。分かりました」
「行ってらっしゃいませ」
そんな会話の後、一人の女性がリビングを出て行く。
「じゃあ美鈴ちゃん。まずは台所からやろうか」
「はい」
美鈴はハウスクリーニングの会社で働く派遣清掃員のバイトだ。
名の通り、依頼があった家に出向いて掃除をするのが仕事で。
大抵は、家主が出掛けている間に仕事を行う事が多い為、二人一組のスタイルを取っている。
美鈴はまだバイトを初めて日が浅い為、一緒に仕事をするのは年配のベテランパートさんだ。
だからパートさんの指示に従って、掃除を進めていく。
「でも、何で二階に上がっちゃダメなんでしょうね?」
掃除をしながら、美鈴はふと思った事を口にする。
「ああ。息子さんが引き籠ってるのよ」
「え……何で知ってるんですか?」
まさかの回答に美鈴が驚いていると、あっさりと答えが返って来た。
「だってこの家、お得意様だもの。私なんか、もう何度もお掃除に来てるわよ」
「そう、なんですか……」
頻繁に掃除を業者に頼めるのも凄いなぁ、と思いつつ、美鈴は手を動かす。
「それじゃあ、私はお風呂の方をやるから。美鈴ちゃんは廊下をお願いね」
「分かりました」
そうして美鈴は、一人で廊下の掃除を始めて。
暫く黙々と掃除していたのだが、不意に視線を感じて顔を上げた。
視線の先には階段があって。
二階の方に目を向けると、踊り場の所に人が立っていた。
その人物はスラッとした身長に、ふわふわとねこっ毛の襟足の長い髪で、顔は上半分が前髪で隠れており、表情は分からない。
前髪を除けば、その容姿はきちんと身綺麗にしていて。
彼が引き籠りの息子さんかな、と思いつつ、美鈴は声を掛ける。
「こんにちは」
「っ!」
だが彼は声を掛けられるとは思わなかったのだろう。
ビクッと肩を震わすと、そのまま逃げるように二階へ姿を消した。
「……声を掛けたのは、まずかったかなぁ……?」
そんな事を思いつつ、美鈴は掃除を再会した。
その様子を、彼がこっそり見ていたとは知らずに。
その後も美鈴は、何度かその家に掃除に出向いて。
その度に、階段の踊り場に立つ彼と顔を合わせた。
「こんにちは」
声を掛けるのは躊躇われたが、一応仕事として訪れている身。
無視するのはあんまりだし、会釈だけというのも失礼な気がする。
だから美鈴は笑顔で挨拶をすると、すぐに反応を気にしないようにして、掃除を続ける。
だが、その日はいつもと違った。
「こんにちは」
「……こんにち、は……」
「!」
美鈴の挨拶に、彼が言葉を返したのだ。
とても小さい声ではあったけれど。
その事に驚いて美鈴は目を瞠るが、すぐに笑みを浮かべた。
声が聞けた。
それがなんだか嬉しい。
そうして仕事終わりに片付けをしている時だった。
服の裾を引っ張られる感覚に振り向くと、いつの間にか彼が立っていた。
まさかいるとは思わなかった為、美鈴は一瞬ビクッとするが、すぐに気を取り直す。
「どうかされましたか……?」
そう聞くと、彼は躊躇いを見せた後、意を決したように口を開く。
「……帰っちゃうの?」
「え、あ、はい。もう終わったので……」
「……」
彼は少し考える素振りをしたかと思うと、急に美鈴の手を取って二階へと向かった。
「あ、あのっ……私、二階に上がっちゃダメって言われてて……」
「平気、だから……」
そうして美鈴が連れてこられたのは、ある部屋の前で。
「あの、この部屋は……?」
「……僕の、部屋。入って…いいから……」
「はい……」
中に入ると、部屋はきちんと整頓されていた。
「……掃除……頼んで、いい……?」
だがそう言われれば、引き受けない訳にもいかないだろう。
「分かりました。それじゃあ、もう一人も呼んで……」
そう言って美鈴が部屋を出ようとすると、彼に腕を掴まれた。
「君だけで、いい」
その言葉に彼を見上げると、前髪の隙間から僅かに漆黒の瞳が見えて。
それはとても真剣な眼差しで、肌の白さもあいまって、美鈴は吸い込まれてしまいそうな感覚を受けた。
思わず一瞬ボーッとしてしまい、美鈴はハッと我に返ると、慌てて言う。
「そ、それなら、もう一人には私だけ少し残ると伝えてきます」
「……うん」
そうして美鈴は事情を説明して。
引き籠りの息子に会って話をした事に関心されただけで、すんなりと残れる事になった。
「お待たせしました。じゃあお掃除しちゃいますね」
そう言って黙々と掃除をして。
きちんと整頓している部屋でも、埃は結構ある。
それを丁寧に拭き取りながら、綺麗にしていく。
「終わりました」
一通り終えて美鈴がそう言うと、彼がゆっくりと近付いてきた。
そうして。
「っ!?」
美鈴は彼に、急に抱き締められた。
「あ、あの……っ!?」
突然の事に美鈴が真っ赤になって混乱していると、彼は耳元で囁くように言う。
「名前……教えて……?」
「え?あ……美鈴、です。前原、美鈴」
「そう……美鈴」
彼が名前を復唱するように呟いた瞬間。
「あ……」
美鈴は心臓がトクンと一つ跳ねたのを感じた。
温かい腕の中は、なんだか心地良くて。
不思議と安心感があった。
「あの……私にも貴方の名前、教えてもらえますか……?」
見上げると、髪の間から覗く漆黒の瞳は優しげな光を湛えていて。
「屋坂……静葉」
「静葉、さん……」
美鈴がその名を復唱すると、静葉は嬉しそうな笑みを浮べた。
そうして美鈴を抱き締める腕に、さらに力を入れる。
「美鈴……少しだけ、このままでいい……?」
「はい……」
そうして美鈴は、自分の手をそっと静葉の背に回した。
暫くして、静葉は美鈴から身体を離した。
「……携帯の、番号……教えて?電話、したいから……」
「はい。じゃあ、私から教えますね」
そうしてメアドの交換をして。
「……美鈴の声……これで、いつでも聞ける……」
嬉しそうにそう言う静葉に、美鈴も嬉しくなる。
だが静葉はすぐにシュンとしたように俯く。
「でも……お仕事、なくても……逢いたい、な……」
「あの、じゃあ……お仕事なくても、来ていいですか……?」
美鈴がそう提案すると、静葉は驚いたように言う。
「本当……?」
「静葉さんが、迷惑じゃなければ……」
「迷惑じゃない」
静葉は強い口調でそう言うと、美鈴の手を取る。
「嬉しいよ……美鈴に、そう言ってもらえて……」
その事に、美鈴は薄っすらと頬を染める。
「だって……私も逢いたい、から……」
すると静葉は微笑んで言う。
「美鈴……可愛い」
そうしてその頬にそっと唇を寄せた。
「っ!?な、何を……」
当然、美鈴は突然の事にさらに顔を真っ赤にさせて慌てる。
だが静葉は首を傾げる。
「ダメ、だった……?」
不思議そうに言うその言葉に、美鈴はなんだか可笑しくなった。
初めて会った時は、あんなに人見知りして。
一つ一つ、言葉を選ぶように話すのに、行動だけは意外に強引で大胆で。
凄くマイペースな人。
でも。
ちっとも嫌じゃない。
「……ダメじゃ、ないです」
美鈴がそう言うと、静葉は握っていた手の指を絡ませて。
「美鈴……好き、だよ」
そう言って、今度はそっと唇にキスをした。
人にはそれぞれ、自分に合ったペースがあるから。
きっと恋をするのにも、時間なんて関係ない。
=Fin=