私の名前は谷橋麻理那。現在高校一年生。
私には現在、片想いの相手がいる。
彼の名前は鷹宰紀明君。
頭が良くて、スポーツもできて、誰とでも仲良くなれるのか、彼の周りには常に人がいて。
女の子の間でもとても人気がある。
対して私は地味で大人しくて引っ込み思案で……とても彼に話し掛ける勇気なんてない。
だからいつも、遠くから見ているだけだった。
彼の姿を見られるだけで、それだけで私は幸せだったのだけれど。
≪近付いた距離≫
そんな麻理那に転機が訪れたのは春。
高校二年生に進級して、それまで遠くから見ているだけだった紀明と同じクラスになったのだ。
しかも、隣の席。
「よろしく、谷橋さん」
「よ、よろしく……」
緊張して、真っ赤になりながら俯き、それでも何とかそう挨拶をする。
というか、それだけで麻理那は精一杯なのだが。
そうしてクラスでの委員会決めの時。
ここでも偶然なのか、紀明が同じ図書委員になった。
う、うそ……なんでこんな偶然……。
私、一生分の運、ここで使い果たしちゃったかも……。
そんな事を麻理那が思っていると、紀明がニッコリと笑いかけてきた。
「っ……!」
ああ、こんなに幸せでいいのかしら、私……。
だが、今までずっと遠くから眺めているだけで満足していた麻理那にとって、紀明に自分から話しかける、という事はやっぱりできなくて。
時々話しかけられるだけで、心臓はドキドキと早くなるし、真っ赤になってまともに顔を見るどころか、受け答えすらも上手くできなくて。
その事で紀明に苦笑される度に、とても申し訳ない気持ちになってしまう。
「……何だか、前よりずっと苦しい……」
遠くから見ていた頃は、紀明が他の女の子と親しげに話すのを見る度に、その子が羨ましいと思ったりしていたのに。
「ダメだなぁ、私……」
そう呟いて、麻理那は溜息を吐いた。
そんな折。
「谷橋さん、その著者好きなの?」
授業の合間に本を読んでいた麻理那は、紀明にそう声を掛けられた。
「え……」
引っ込み思案な性格で、常に一人でいる事の多かった麻理那にとって、本を読むという事はいつしか当たり前の事になっていて。
麻理那が読むのはもっぱら文庫小説。
今読んでいるのは、麻理那のお気に入りの小説家のシリーズ物だ。
「あ、うん。……な、なんで?」
「いや、よくその人の小説読んでるなって思って。俺も好きなんだ、そのシリーズ」
「本当?私も大好きなの」
「そっか。そのシリーズだと何作目が好き?俺は5作目。外伝の方に載ってる短編の3つ目も捨てがたいけど」
「そうなんだ。私はやっぱり1作目かな。でも、短編のそのお話も、他のと少し雰囲気が違ってて好きかな」
「うんうん、俺もそう思う。あ、今度そのシリーズの最新刊が出るって知ってる?」
「勿論。この前のがあんな終わり方してたから、続きが凄く気になっちゃって……」
「だよな〜。主人公が絶体絶命のピンチを、どう切り抜けるのか楽しみだよな」
そうやって話していると、次の授業のチャイムが鳴って。
「じゃ、また後で」
「う、うん」
我に返った麻理那は、今のたった数分の事を思い返して驚いていた。
凄い。
私、今、普通に喋れてた。
こんな風に鷹宰君と話したの、初めてだ……。
今更ながらに真っ赤になってきて。
麻理那は授業どころじゃなかった。
その日はたまたま、放課後に図書委員の当番になっていて。
返却された本の片付けや貸し出しの作業の合間に、紀明が話しかけてきた。
「谷橋さん」
「え、あ、な、何?」
「うーんと、前から聞こうと思ってたんだけどさ……」
「な、何を……?」
「人と話すの、苦手?」
「え、っと……割と、苦手かな」
麻理那がそう言うと、紀明は少し言いにくそうに話す。
「そっか。いや、さ。なんかいつも話しかけても、おどおどしてるっていうか……だからちょっと嫌われてんのかな、俺?って思ってたんだけど」
「っ!」
思ってもみなかった言葉に、麻理那は勢いよく首を横に振る。
「うん、分かってる。今日、本の話した時は全然いつもと違ってたからさ。最初はちょっと驚いたけど、あぁ、もしかして話すのが苦手なだけかなって」
そう言って紀明は優しく微笑む。
「谷橋さんとは、もっと仲良くなりたいからさ。ほら、本の話なら気が合いそうだし。だから今度から名前で呼んでいい?」
「え?えっと……?」
「だーかーら。麻理那って呼んでいい?」
「……っ!?」
名前を呼ばれた事に、麻理那は一気に顔を真っ赤にさせる。
「な。呼んでいい?」
再度聞かれて、麻理那はコクコクと何度も首を縦に振る。
「よし。じゃあ俺の事も、今度から名前で呼べよ。紀明って。知ってたか?」
確認するように聞かれて、麻理那はまた首を縦に振る。
フルネームで覚えてるしっ。
……って、呼んでいいの?鷹宰君の事、名前で……。
「い、いいの?」
「ん、何が?」
「な、名前……呼んでも」
「いいって言ってるじゃん」
「でも……何で?」
「あ?そんなの麻理那にそう呼んで欲しいからに決まってるだろ」
人懐っこそうな笑みを浮べてそう言う紀明に、麻理那はこれでもかというくらい真っ赤になるのが分かった。
ああ、もう。
死んでもいいかも……。
ていうか、今なら凄く幸せな気分のまま死ねそう……。
そんな馬鹿な事を思いつつ、麻理那はまるで天にも昇る気持ちとはこういう事を言うんじゃないだろうかと思った。
「あ、そうだ。確か帰りの方向一緒だったよな。終わったら一緒に帰ろうぜ」
「う、うん……」
そんな約束に、麻理那は頬を抓りたくなった。
こんな都合のいい事が起こるなんて。
もしかして、今夢を見てるのかも。
夢なら醒めないで……。
そうして下校時刻になって、片付けをして最終チェックをして鍵を掛ける。
「じゃあ職員室に鍵返してくるから。先に行ってていいぞ」
「うん……お願い」
そうしてその背を見送って、麻理那は昇降口へと足を向ける。
「なんか、本当に夢の中にいるみたい……」
そんな事を呟きながら、麻理那は先に靴を履き替える。
と、傍を通り過ぎた女の子達の話が偶然耳に入った。
「ね、鷹宰君て彼女いるのかなぁ」
「えー?あんなにカッコイイんだし、いるんじゃない?」
その言葉に、麻理那は突然我に返った。
「彼女……」
女の子の間で凄く人気のある紀明。
そんな彼に彼女がいない訳ない。
それなら。
「一緒に帰るのは、彼女さんに悪いよね……」
夢みたいな出来事の連続の上に、嬉しいお誘いだったけど。
もっと早く気付くべきだった。
そう思った麻理那は、何も告げずに帰るのは後ろめたい気もしたが、顔を見てしまうと断れない気がしてそそくさとその場を後にした。
「やっぱり、手紙か何か残しといた方が良かったかな……でも、書いてる間に来ちゃったらダメだし……」
そんな事を悩みながらとぼとぼと道を歩いてると、急に腕をグイッと引っ張られた。
「っ!?」
「こら。何先に帰ってんだよ」
そこには、走ってきたのか、ほんの少し息を乱した紀明がいて。
「鷹宰君……」
麻理那が苗字で呼ぶと、紀明はムッとした顔になる。
「……名前で呼べって言っただろ」
「あ、あの、でも……」
「で?約束したのに何で先に帰るんだ?」
そう言った紀明は、心なしか怒っているようにも見えて。
というか、約束したのに勝手に帰られては、誰だって怒るだろう。
でも。
「あ、あの……わ、私なんかと一緒に帰ったの知られたら……彼女さんに、悪いかなって……」
「は?……彼女なんていないけど」
「え?」
確かに、彼女がいるだろう、というのは麻理那を含め周りの想像に過ぎない。
本人から直接聞いた訳ではないのだ。
彼女がいない、という事に安堵はしたが、麻理那の頭に今度は別の考えが過ぎった。
「で、でも……別に私なんかと帰らなくても……鷹宰君、人気あるし……」
「……何だよ、それ」
「だ、だから……私なんて、地味だし、大して可愛くもないし……そんな、気を使わなくてもいいから……」
そう。
自分は彼の隣にいるべき人間じゃない。
一緒にいても、釣り合うハズがないんだから。
だが。
「……そんな風に言うなよ!」
「っ!」
突然の大声に、麻理那は思わずビクッと縮こまる。
「俺は、別に気を使ってとかじゃなくてだな……」
もどかしそうにそう言う紀明に、麻理那はどうしたらいいか分からなくなる。
しかし次の瞬間、紀明は意を決したように真剣な表情になる。
「俺は、お前の事が……麻理那の事が好きなんだ。だから……そんな風に自分を卑下するな」
「え……?」
麻理那は、今聞いた事がにわかには信じられなかった。
今の、何?
今。
彼は、何て言ったの……?
半ば思考停止状態の麻理那に気付かないのか、紀明は続ける。
「一年の時から、姿を見かける度に目で追いかけてた。凄く、可愛い子だなって思ってて。だから、同じクラスになれて隣の席になった時はスゲー嬉しかった」
その後の話は、麻理那がまるで想像だにしなかったような内容ばかりで。
麻理那の態度に最初は凄く落ち込んだ、とか。
誰に対しても同じような態度だから、ちょっと元気になった、とか。
麻理那が図書委員を希望したから、同じ委員を選んだ、とか。
シリーズ物の小説をよく読んでたから、少しでも話を合わせたくて、同じ小説を買って、読んでみたら意外にハマったとか。
「だから、麻理那が思うよりずっと、俺は……」
「嬉し、い……」
「え?」
「だ、だって……わ、私も……ずっと鷹宰君の事、見てるだけで、幸せだったから……」
「それって……」
「わ、私も……鷹宰君の事……好き、です……」
その事を告げた時の麻理那は、きっと全身真っ赤だろうと思えるくらい、体中が熱くなるのを感じた。
そうして俯いたまま、真っ赤な顔を上げられないでいると、急にギュッと抱き締められる感覚に、麻理那はまたも思考が停止した。
「スゲー嬉しい……。両想いだったんじゃん、俺達」
「……う、ん」
「じゃあ、これからは麻理那が俺の彼女って事でいいんだよな?両想いなんだから、俺達恋人同士だよな?」
恋人同士、という言葉に麻理那は驚きが過ぎて、逆に泣いてしまった。
「え、何で泣くんだよ!?お、俺のせい!?」
「わ、分かんな……急に、なんか……」
それは嬉し涙だったのだが。
気が動転して、暫くは二人共その事に気付かなかった。
それから暫くして。
麻理那は相変わらず緊張して紀明とは上手く喋れなかったりするのだが。
それでも、少しずつ二人の距離は縮まっていった。
距離を縮める事は、容易ではないかもしれないけれど。
どちらかが諦めなければ、いつかは近付く――。
=Fin=