≪その心地良さに≫
高神一也(たかがみかずや)は最近親会社から出向してきた専務だ。
「高神専務。こちらの書類、お願いします」
「後で目を通そう。そこに置いておいてくれ」
「専務。頼まれた書類です」
「ああ、ありがとう」
赴任してからまだ一ヶ月程だが、評判はかなりいい。
有能な仕事ぶりから男性社員には敬意を抱かれ、しかも見た目の格好良さから女性社員にも人気がある。
だが彼は周囲に左右される事なく、ストイックに仕事をこなすその姿勢は、彼の人気に拍車をかけている。
しかし彼にはある秘密があった。
一也は普通の出向専務ではない。
実は親会社の調べで、この子会社には業務不正の疑いが出ており、それを詳しく調べる為に来たのだ。
業務不正の調査は内密に行わなければならないので、一也は通常業務の合間や休日返上で資料室などで調べ物をする。
その為一也に専用の秘書はいないし、ストイックに仕事をこなすのも、調査過程で私情を挟まない為だ。
その日も一也は業務の合間を縫って、資料室へと足を運ぶ。
だがその足取りは何となく重い。
大方の調査は済んだものの、通常業務との並行や休日返上で疲れが溜まってきているのだ。
その兆候として最近、少し頭がふらふらする感じがしている。
「……流石に少し休まないとやばいかもしれないな……」
そんな事を思いながら歩いていた矢先。
「っ……」
足がもつれる感じがしたと思ったら、一瞬目の前が真っ白になって、気が付いたら一也は倒れていた。
体のあちこちに痛みを感じる。
そんな時だった。
「大丈夫ですかっ」
たまたま近くを通りかかったのだろう、女性の声が聞こえた。
「ああ、心配ない」
一也はその女性には目も向けずに立ち上がる。
だがすぐにふらついて、壁に手を付いてしまう。
「医務室に行きましょう。肩を貸しますから」
「お、おい……」
その女性は、半ば強引に一也の片腕を掴むと、自分の肩に回す。
「ゆっくり歩いた方がいいですよね」
そう言いながらその女性は、ゆっくりと歩き出す。
一也は“大丈夫だ”とその手を拒否したい所だったが、歩き出してみると、どうやら自力では無理そうだという事が分かった。
医務室に付くまでの間、その女性は一也に優しく声を掛け続けてくれていた。
意識を失わないように、と気遣っての事らしかった。
だがその声音は聞いていて耳に心地良いものだった。
そうして着いた医務室には、通常いるはずの看護師の姿がなかった。どうやら少しの間席を外しているらしい。
「暫く横になった方がいいです」
「ああ、すまない……」
ベッドに横になって、そこでようやく一也は、相手の名前を聞いていない事に気が付いた。
だが、横になった事で一気に疲れが出たようだ。
意識が朦朧として、相手の顔も良く見えない。
「君は……」
そう言いかけて、一也の意識はそこで途切れた。
次に目が覚めた時、一也は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「医務室か……」
だがすぐに状況を思い出して体を起こすと、一人の女性が寄ってきた。
「気が付かれましたか、専務」
「君は確か……秘書課の」
「斉藤と申しますわ。でも驚きました。急に倒れられて……」
その言葉に一也は何となく違和感を感じつつも聞く。
「では君がここまで?」
「はい。看護師の方はすぐに戻られたんですが、専務の事が心配だったので」
「そうか、すまない」
「やはり、前から申しているように専属の秘書をお付けになられた方がよろしいかと……」
「……検討はしてみよう」
そうは言ったが、一也の仕事の関係上、秘書を付ける事はできない。
どこから情報が漏れるか分からないのだ。
不正をしている相手に漏れたら意味がない。
暫く寝て大分疲れも取れたようで、何とか動けそうだった。
だが今日はもう帰った方がいいだろう。
時計を見るとそろそろ定時だ。
「ありがとう。今日はもう帰る事にするよ。色々と世話になった」
「もう、お帰りになられるんですか?もう少し休まれた方が……」
話を進めていく中で、一也はようやく違和感の正体に気付いた。
言葉遣いが違う。よくよく聞けば、声もどうやら違うようだ。
一也はそれを確かめる為に話を続ける。
「ここまで運ぶのは大変だったろう」
「いえ、そんな事……」
「会議室のある辺りからだとかなり距離があるからな」
「そ、そうですわね……」
その言葉に一也は溜息を吐く。
一也が実際に倒れたのは資料室のある辺り。会議室とはまるで場所が違う。
「それで、実際に私を運んでくれた女性は?礼を言いたいんだが」
一也がそう言うと、目の前の女性は顔を強張らせる。
「な……専務、仰っている意味が……」
「ああ、すまない。先程は会議室の辺りで倒れた、と言ったが、すぐに言い間違えた事に気付いてね」
一也が悪びれもなくそう言うと、彼女は僅かに顔を歪ませる。
だが一也はそれを気にも留めずにもう一度聞く。
「それで、私を運んでくれたのは?」
「……知りません」
「そうか」
その答えに頷くと、一也は彼女の横をサッとすり抜け看護師の元へと行く。
「お世話になりました。もう帰ります」
「はい。……申し訳ありませんでした。席を外していて……」
「いや、気にしなくていい。それより、君が戻ってきた時、他に誰か女性がいなかったか?」
「さぁ……?あ、でもココに戻ってくる時に、総務部の里永さんとすれ違いました」
「総務部の里永さん?」
「はい。里永日和(さとながひより)さんです。彼女、一緒にいると何だか癒されますから、有名なんです」
「そうか。ありがとう」
看護師の説明に、一也は納得する。
思い返してみれば、確かに彼女の存在は、何となく他の女性とは違う感じがした。
一也は医務室を出たその足で総務部へと向かう。
別に礼を言うだけなのだから、終業間際の今でなくともいいとは思うのだが。
何故か一也は後回しにしたくなかった。
「里永さんというのは、どなたですか?」
「せ、専務!?しょ、少々お待ち下さいっ!」
手近な社員を捕まえてそう聞くと、その人物は慌てた様子で彼女を呼びに行った。
勿論、総務部は一也の突然の来訪に、一同ざわつく。
だが一也がそんな事気にも留めずに待っていると、一人の女性が慌てた様子で向かってきた。
「わ、私が里永ですが……」
そう言って一也の顔を間近で見た彼女は、見るからに驚いた表情になった。
「さっきの……あの、もう動いて大丈夫なんですか?」
その反応に、一也は確信する。
彼女だ。
「里永日和さん。少し時間を貰ってもいいかな?ここではゆっくり話はできなさそうだ」
「はい」
流石にここではギャラリーが多すぎる。
それに気付いたのか、日和は周りを見てから返事をした。
そうして少し考えた末、一也は結局専務室に行く事にした。
「そこに掛けて」
室内に設えてある応接用のソファを日和に勧めて、一也も対面に座る。
「まずは礼を言おう。医務室まで運んでくれて助かった。ありがとう」
「あ、はい。それで体調の方は……」
「ただの疲労だ。休んで大分良くなった」
すると日和は眉を寄せる。
「大丈夫だと思っても、ちゃんと体を休めないとまた倒れますよ?」
心配そうに言うその声は、やはり耳に心地良かった。
「そうだな。少し根を詰め過ぎたのは自覚しているし……ちゃんと休もう」
「そうですよ。自分の体は労わらないと……って、ああっ!す、すみません。専務に生意気な事言ってしまって……」
「いや、そんな事は……」
「わ、私、貴方が専務だとは知らなくて……大分馴れ馴れしいというか、失礼な態度取りましたよね?どうしよう……」
今更ながらにそう慌てる日和に、一也は何だか笑いが込み上げてきた。
「君は……面白いな」
笑いを堪えながらそう言う一也に、日和はムッとしたように言う。
「何笑ってるんですかぁ〜」
「いや、すまない。……そんなに畏まる必要はないさ」
「でも……」
日和はそう言って、今度は困ったような顔をする。
それを見て一也は今まで感じた事のない気分になった。
くるくると変わる表情は見ていて飽きない。
自分が専務だと分かっても、決して媚びるような態度は取らないし、それが新鮮だ。
もっと彼女の事を知りたい。
もっと一緒にいたい。
そう思った一也は、日和を食事に誘う。
「さて、この後何も用事がないようであれば、一緒に食事でもどうかな?今日のお礼として」
「え……」
「それとも、彼氏に誤解されると迷惑か?」
日和の反応に、何となくそう言った一也は、何故か自分の気持ちが沈んだような気がした。
だが。
「そんな私、彼氏なんていませんよ?それより、専務の方こそ誰かに誤解されたら……」
日和の言葉に、沈んだ気分が浮上するのを感じた。
「私にも不都合はない。で、どうだ?」
期待を込めてそう聞くと、日和は少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「あの、ご迷惑じゃないなら」
その言葉に、一也は妙に嬉しくなった。
食事は楽しい物だった。
相変わらずくるくる変わる日和の表情は、一也の心を温かい気分にさせた。
「でも本当、何か信じられません」
「何が?」
「だって、高神専務っていったら、社内で一番人気なんですよ?そんな人と食事してるなんて……」
「その割には、君は私の顔を知らなかったようだけど?」
「ぅ……そ、それは……」
言葉に詰まった日和に、一也はまた笑った。
食事を終えて日和を家まで送り届けてから、一也は先程までの事を思い返す。
他人とあんなに心地良い食事をしたのはどれだけぶりだろうか?
そうして一也は独り呟く。
「さて、どうするか……」
そうして数日後。
日和の元に突然、職場移動の辞令があった。
“高神専務付き秘書を命ずる”
「何で……?」
突然の事に日和は首を傾げるが、周りからは羨望の目を向けられた。
一方の一也は、専務室で密かに日和が来るのを、今か今かと待ち望んでいた。
本来なら秘書を付けるべきではないと分かっているが、どうしても一緒にいたいという気持ちの方が優先してしまった。
幸い、日和は業務不正とは無縁だし、一般社員には一也が何を調べているか分からないだろう。
「さて、これからどうなるかな……」
一也はそう呟き、笑みを浮かべた。
君といると心地良いから。
少しだけ、自分の我儘に目を瞑ろう。
=Fin=