俺は今、ある事に悩んでいる。
 それは一人の女子生徒について。


≪始まりの予感≫


 今年のバレンタインデーの日、俺は見知らぬ女の子からチョコを貰った。
 これだけ聞くと、思いがけない告白を思い浮かべるだろうが、そうじゃない。
 近道のつもりで通り抜けようとした公園で、たまたま見かけたのだ。

 女の子がゴミ箱に、有名店の高級チョコ(と思われる)の包みを捨てようとしているのを。

 バレンタインデーのこの時期にチョコを買う男は、大抵寂しい奴だと見られがちで。
 限定チョコとか食べてみたくても、男の見栄が邪魔をして買いに行けない。
 そう思ったら思わず、いらないなら欲しいなぁ、とか思ってしまって。
 その事に、夕飯前の俺のお腹は素直に反応してしまった。
 突然鳴ったお腹の音は、女の子にも聞こえたのだろう。
 振り返ったその顔は、泣き顔で。
 どこを見ていいか分からずに、仕方なくチョコの包みを凝視していた。

 そりゃそうだ。
 バレンタインデーの日に、折角買ったチョコがゴミ箱行きなんて。
 受け取って貰えなかったに決まってる。
 欲しいなぁ、とか思った俺が恥ずかしい。

 そんな風に思っていたら、思いがけず話し掛けられて。
 変な人と思われるだろうと思ってた俺はテンパって、思った事を正直に話してしまった。
「いや……それ、捨てるのかなって思って」
「……」
 しまった、引かれた。
 これじゃあまるで、捨てるの待ってるみたいじゃないか。
「あ、いや、その、決して後で拾おうとか思ってるんじゃなくて!」
 慌ててそう言いながら、俺は自分の顔が真っ赤になるのを感じて。
「その……ちょっと勿体無いかなって……」
 何やってんだ、俺。
 何か情けなくなってきた……。
 そう思って自己嫌悪していると、スッと目の前にチョコの包みを差し出されて。
 その子は控えめな声で言う。

「あの……もし良かったら、どうぞ」

 その言葉に、俺は思わず目を瞠った。
「え、いいの!?」
 現金だとは思ったけど、くれるって言うんだから、普通に嬉しい。
「はい、どうぞ」
 そう言ったその子の表情も、何だか明るくなっていて。
 無理して俺に渡すって訳でもなさそうで、ホッとした。
「うわー……マジで嬉しい。ありがとう!」
「それじゃあ、私はこれで……」
 お礼を言うと、見ず知らずの男にチョコを渡したのが恥ずかしかったのだろう。
 少しだけ慌てたようにその場を去ろうとする女の子に、もう一度お礼を言って。
 顔だけ振り返ったその子に、俺はブンブンと手を振った。


 それが先月のバレンタインの日にあった事だ。
 で、俺は3月に入って急遽、ある高校の臨時教員になって。
 本当ならそれは4月からの予定のハズだったんだが。
 春休みから産休に入る予定だった先生が早産になったとかで。
 予定よりも早く呼ばれたのだ。(ちなみに、早産になった先生は母子共に健康という事らしい。)

 その高校で見つけたんだ。
 チョコをくれた女の子を。
 人の顔を憶えるのは得意だし、彼女の泣き顔や笑顔は印象に残っていたから、間違いない。
 チョコの包みにメッセージカードが挟まってたから、相手の男も分かるが。
 どうやら彼女の態度から、もう相手の事を想っていないのだと、推測できる。
 それにはホッとしたけれど。

 ……この場合俺は、ホワイトデーにお返しを用意するべきなんだろうか……?

 彼女が一度だけ会った俺の事を憶えてるのならいい。
 けれど、憶えてなかったら?
 生徒に手を出そうとする変態教師のレッテルを貼られるかもしれない。
 でも、貰った事に変わりはないしなぁ……。

 そう思って俺は、律儀にもホワイトデーのお返しを用意した。


 そうしてホワイトデー当日。
「……しまった。いつどこでどうやって渡せばいいんだ……」
 臨時とはいえ俺は教師で、相手は生徒。
 授業担当のクラスの中にはいなくて、校内で見かけただけ。
 部活に入ってるとか、そういう個人情報も知らないしなぁ。
 だから当然、会話らしい会話をした事もない。
 そんなんだから、呼び出す用事どころか、理由すら思い浮かばない。
 ……どうも俺は、昔から行き当たりばったりな所があるな。
「うーん、困った」
 考えても埒が明かないので、機会があったら渡す、という事にして、取り敢えずお返しを持ち歩く事にした。
 お返しに用意したのは、二つ折りの財布程度の大きさの箱に入ったクッキーだ。
 だからスーツのポケットに余裕で入ったし、チョコみたいに溶ける心配もない。

 そうして一日は何事もなく過ぎて。
 ……渡す機会も全然ないまま過ぎて。
 俺は溜息を吐きながら、最後の悪足掻きに放課後の校内を当てもなく彷徨ってみる。
 すると。
 丁度一人で廊下を歩く彼女を見つけた。
 周りを見ても、他の生徒はいないようで。
 俺はチャンスとばかりに駆け寄る。
「あの、ちょっと……」
「……先生。どうかしたんですか?」
「今、いいかな」
「はい」
 取り敢えず呼び止めるのに成功した俺は、軽く深呼吸をして話を切り出す。
「俺の事、憶えてるかな。先月、君にチョコを貰ったんだけど……」
「!」
「それで、ええと……貰いっぱなしっていうのも悪いから、一応、お返しを用意してて」
 言いながら俺は、何だか緊張してきた。
 気色悪いとか思われたら泣くぞ、俺。
 すると彼女は、暫く呆然としてたかと思うと、急にクスクスと笑い始めた。
「……律儀ですね。だってあれ、捨てようとしてたチョコですよ?」
「いや、まぁ、そうなんだけど……」
「……あのメッセージカード、見ました?」
「え?あ、その……」
 メッセージカードの事を聞かれて、何となく彼女の秘密を垣間見てしまった後ろめたい気持ちに襲われるのは何故だろう。
 それが顔に出ていたのか、彼女は慌てたように手を振る。
「見たのは、別にいいんです。あれは挟みっぱなしにしてた私が悪いんだし」
「でも……ごめん」
「気にしないで下さい。彼の事はもう吹っ切れてますし」
「……」
 それでも俺は何も言えなくて黙ってしまう。
 すると彼女は、はにかんだような笑みを浮かべて言った。

「あの時、チョコを受け取った貴方が凄く嬉しそうな笑顔だったから……だから私、それで沈んでた気持ちが軽くなったんです」

 そういう彼女は、僅かに頬を染めていて。
「あの時は、ありがとうございました」
 彼女はぺこりと頭を下げる。
「あ、いや……俺は、何も」
 そう言いながら俺は、物凄くドキドキしていた。

 ヤバイ。
 相手は生徒なのに。
 抱き締めたい。

 自分のその思考を理性で抑えて、俺は忘れかけていたお返しのクッキーを渡す。
「と、そうだ、これ……」
「あ、ありがとうございます」
「じゃ、じゃあ俺はこれで……」
 そうして今度は。
 あの時とは逆に、俺がその場を慌てて後にした。


「教師と生徒、か……」
 立場とか年の差とかを考えると、どうにかなるなんて思えないけど。
 何となく、予感がする。

 何かが起こりそうな予感。

 でもそれはきっと。
 幸せになりそうな、そんな予感――。


=Fin=

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