≪合鍵≫


 それは、遊菜が貴寿と付き合い始めて割とすぐの事だった。
 休日にデートの約束をしていたのだが、約束の時間を過ぎても貴寿が一向に待ち合わせ場所に来ないのだ。
「……遅いなぁ……」
 何かあったのかと心配になって電話をするが、それも繋がらなくて。
 遊菜は不安に駆られる。

 一人暮らしだから、何か病気で動けない、とか?
 それとも、他に誰か付き合ってる人とかいて……。

「……先輩に限って、ないよねぇ?」
 その可能性を完全には捨て切れなくて、でも病気とかで動けないんだったら大変だからと家に急ぐ。


 貴寿の暮らしているアパートに行くと、遊菜はチャイムを鳴らす。
 だけどやっぱり反応はなくて。
 念の為、携帯に電話を掛けると家の中から着信音がした。
「家にいるんだ……でも、じゃあやっぱり動けないの……?」
 家の中で倒れている貴寿を想像して、遊菜の顔はサッと青ざめる。
「ど、どうしよう。警察?病院?あ、救急車!」
 そう思い付いて電話を掛けようとした所で、急に電話が鳴って遊菜はビクッとする。
 その着信の相手は。
「先輩!?だ、大丈夫ですか!?」
『遊菜……ごめん、今どこにいる?』
「家の前ですっ!先輩、動けますか?待ってて下さい、今救急車を……」
 遊菜がそう言った所で、目の前のドアがガチャっと音を立てていささか乱暴に開いた。
「ごめん、遊菜。取り敢えず上がって?」
「せん、ぱい……?」
 目の前に現れた貴寿は、特に異常はなさそうで。
 遊菜は混乱したまま、貴寿に促されて家の中に入った。

 家の中は油絵特有の独特な臭いで満ちていて。
 床には画材道具や資料、その他様々な物が散らかっていた。
「あの、これは……?」
「申し訳ないんだけど……朝方に起きた時、絵の構図を思い付いて。今までずっと描いてた」
「今まで、ずっと?」
「5、6時間ぐらい、かな……」
「……凄い集中力ですね……」
 呆れたように、だけど感心して遊菜はそう言うが、貴寿は深刻そうな表情で言う。
「本当に、ごめん。デートの約束すっぽかして、電話にも気付かなくて……」
「でも……先輩が倒れてなくて、よかったです」
 その言葉に貴寿は苦笑する。
「……かなり心配も掛けたみたいだね……俺の悪い癖なんだ。一度絵に集中すると、周りの音が聞こえなくなる」
 溜息を吐きながら言われた言葉に、だが遊菜は逆に納得する。
「でも、だから先輩はそれだけ絵が上手いんですね」
「え……」
「一つの事に集中できるって事は、それだけ上達が早いんだと思います」
 遊菜がニッコリと笑ってそう言うと、貴寿もようやく笑顔になる。
「遊菜……ありがとう」
 そうして遊菜を抱き締めようとして、動きを止める。
「先輩?」
「……今抱き締めたら遊菜の服が汚れるな……暫く待ってて。手を洗って着替えてくるから。そしたらちょっと遅くなったけど、デートに行こう」
「はいっ」
 そうして遊菜は今まで貴寿が描いていたのだろう絵を眺めながら、彼を待つ。


「じゃあ行こうか」
「あ、はい」
 支度を終えた貴寿にそう声を掛けられ、遊菜は彼の後に付いて玄関へと行く。
「ああ、そうだ」
「?」
 玄関で突然貴寿は声を上げ、遊菜に振り向く。
「忘れない内に渡しておくよ」
 そうして貴寿が遊菜に差し出したのは。
「鍵、ですか?どこの……」
「コレの」
 遊菜が聞くと、貴寿は玄関のドアノブを指差した。
「コレのって……え、これ合鍵ですか……?」
 まさか合鍵を渡されるとは思っていなかった遊菜は驚く。
「さっきも言ったように、一度絵に集中すると、周りの音が聞こえなくなるから。コレがあればいつでも中に入れるだろ? そうすれば余計な心配を掛ける事もなくなる」
 微笑んでそう言う貴寿に、遊菜は戸惑う。
「で、でもいいんですか?合鍵なんて……」
「……デートの約束がなくても、来たい時に来ていいよ」
 その言葉に遊菜は、何だか無性に嬉しくなって、思い切り返事をした。
「……はいっ!」


 いつでも来ていい、という事は。
 いつでも歓迎している、という心の表れ。
 合鍵はそういう、信頼の証。


=Fin=