≪幸せの代償≫
それは、息子の龍矢が小学校になって間もなくの事。
その日龍矢は学校が終わって帰ってくるなり、初音に言った。
「ねぇ、おかあさん。ぼく、おじいちゃんとおばあちゃんにあいたい!」
「え……」
思いもよらなかったその言葉に、初音は動揺する。
「ど、どうしたの龍矢。急にそんな事……」
「あのね?きょう学校で、おじいちゃんとおばあちゃんにおもちゃかってもらった子がいて――」
龍矢の話によると、誕生日に祖父母に欲しかった玩具を買って貰った子が、その事を自慢したのだという。
そこから皆で自分の祖父母の自慢大会みたいな話の流れになって。
だが龍矢は祖父母に逢った事がない為、答えられなかったのだという。
「ねぇ、ぼくにもおじいちゃんとおばあちゃん、いるよね?」
そう言って見上げてくる龍矢は、どこか不安そうで。
だが初音はどう答えるべきか迷った。
初音も虎太郎も、駆け落ち同然で家を出て既に実家からは縁を切られている。
二人共、両親はまだ健在だろうが逢う事はもう決してない。
だがその存在を知れば、龍矢は逢いたがるだろう。
友達から話を聞いて、祖父母というのは両親同様、優しい存在なのだと思っているだろうから。
「……あのね、龍矢。そのお話はご飯の時に、お父さんと一緒にしましょう?」
「うんっ」
迷った末、初音は虎太郎にも判断を仰ぐべく、龍矢にそう言った。
夕食の席で龍矢は当然、祖父母の話題を口にした。
「ねぇ、おとうさん。ぼくにもおじいちゃんとおばあちゃんいるよね?」
それを聞いた虎太郎は、初音に目を向ける。
すると初音は、困ったような目を向けた。
それに頷くと、虎太郎は龍矢にきちんと向き直って言う。
「……龍矢のお爺ちゃんとお婆ちゃんは、ちゃんといますよ」
その言葉に、龍矢はパァッと顔を輝かせる。
「ほんとうっ!?じゃああいたい!こんどのお休みにあいにいこうよ!」
興奮したようにそう言う龍矢の頭を撫でながら、虎太郎は困ったように言う。
「龍矢。お爺ちゃんとお婆ちゃんには、逢いに行けないんですよ」
すると今度は、龍矢は途端に泣きそうな顔になった。
「どうして?なんでぼくはあいにいけないの?」
「……龍矢は悪くないんです。悪いのは、俺と初音さんだから……」
その言葉と、自然と沈痛な面持ちになった虎太郎の表情を見て、龍矢は何かを感じ取ったのか、立ち上がって虎太郎の頭を撫で始めた。
「おとうさん、どうしたの?だいじょうぶ?」
「……大丈夫ですよ。龍矢は優しい子ですね」
虎太郎がそう言うと、龍矢は嬉しそうに笑う。
「……俺と初音さんは、お爺ちゃんとケンカしちゃったんです」
「ケンカしたの?ケンカしたらなかなおりするんだよ?」
龍矢のその当たり前の答えに、虎太郎も初音もハッと息を呑む。
「……仲直り……」
「……そう、できたら……どんなにいいか……」
ケンカをしたら仲直りする。それは当たり前の事だ。
そうして、いくら理由があったとはいえ、何も言わずに駆け落ちした二人の方が、当然悪い。
ケンカならば、謝るのは虎太郎達の方という事になる。
だが話はそう簡単ではない。
相手は向日という家そのものだ。
個人の感情など、簡単に切り捨てられてしまう家。
謝っても許して貰えないだろう所か、一家離散させられる可能性がある。
“謝罪を申し込むなら誠意を見せろ”と。
ただでさえ、社会的に抹殺しようと圧力を掛けてきたのだ。
これ以上関わらない方が身の為。
例え、どんなに仲直りをしたいと思っていても。
「……すみません、龍矢。仲直りは、難しいんです」
虎太郎がそう言うと、龍矢は俯いて。
だがすぐに顔を上げて言った。
「おとうさんもあかあさんも、おじいちゃんたちとなかなおりできるといいね」
「龍矢……そうですね」
きっと、子供心に思う所があったのだろう。
龍矢がそれ以上、祖父母の話題に触れる事はなかった。
龍矢を寝かしつけた後で、虎太郎と初音は二人でしんみりと話をしていた。
「お爺ちゃんとお婆ちゃんに逢いたい、か……」
「龍矢には、色々と我慢させてしまう事になりましたね」
「ええ……本当は、ちゃんと謝って許してもらうのが、一番いいんでしょうけど……」
「そうですね。ですが、今の幸せがあるのは……」
そう、二人は選んだのだ。今の幸せを。
その事で後悔はしない。そう決めたのだから。
だが、自分達の子供に言われると、手離したモノの大切さを思い知らされる。
幸せの代償。
それは、失うには大きすぎたのかもしれない。
=Fin=