その日は朝から、何だか杏香の様子がおかしいと芹は思っていた。
 でも、前に熱を出した時とは違っていて、そわそわしている。
 そうしてお昼時。
「あの、芹君。学校が終わったら、一緒に来て欲しい所があるんですけどー……」
「いいけど……あれ?今日はバイトない日だっけ?」
「バイトは入ってますよー?だから、今日は部活をお休みするんですー」
「珍しいね。杏香が部活休むなんて……急用なの?」
「そうですー。でも、芹君にもどうしても付いて来て欲しくて……ダメですかー……?」
 心配そうな表情をする杏香に、芹は笑顔で言う。
「大丈夫だよ。で、どこに行くの?」
 すると杏香は嬉しそうに顔を綻ばせて言った。

「産婦人科ですー」

「分かった。産婦人…………産婦人科!?」
 驚く芹に、だが杏香はニコニコと頷いた。


≪面会の時間≫


 近くにある産婦人科に行く道すがら、芹は安堵しながら歩いていた。
「……母親に赤ちゃん、ね。成程……」
 詳しい説明を聞けば、妊娠していた杏香の継母の赤ちゃんが産まれたから、それを見に行く為らしい。
「そうだよね……冷静に考えれば慌てる必要なんてないよね……」
 まだ付き合い始めてそんなに経ってないし、そういう関係になってもいない。
 勿論、そうなっていたとしても、ちゃんと大切にするつもりだし。
「芹君?どうかしましたかー?」
「な、何でもない……」
 有り得ない早とちりをした事を気付かれないように、芹は首を横に振る。

 そういえば。
 杏香の両親に会うのは初めてだ。
 たとえそれが血を分けた肉親じゃないにしても、緊張するのに変わりはない。

「杏香のご両親て、どんな人?」
「んー……凄くいい人、ですかねー?」
「いい人……」

 確かに、いい人なんだろう。
 何と言っても、血の繋がらない杏香を実の子供以上に愛してくれている人達なのだろうから。


「あ、ここですよー」
 そうして着いた病院の窓口で、病室を聞いて。
 病室に行くとそこには、杏香の両親と思われる人物と赤ちゃんの他に、年配の女性がいた。
「杏香!久し振り。元気だったか?」
「はいー。お父さんも久し振りですー」
「杏香ちゃん。ほら、弟よー?」
「わぁ、男の子ですかー?可愛いですー」
 笑顔で両親に出迎えられ、杏香は嬉しそうだ。
「おや?杏香、彼は?」
「え、もしかして杏香ちゃんの彼氏!?」
 入り口に立ったまま、どうしようと思っていた芹を、杏香の両親が見つける。
「はいー。紹介しますねー?彼氏の天津芹君ですー。芹君はクラスいいんちょさんなんですよ」
「あ、天津芹ですっ。初めましてっ」
 杏香に紹介されて、芹は深々と頭を下げる。
 そうして頭を上げると、杏香の父親は何だか落ち込んでいるようだった。
「杏香に彼氏……そーか……」
「あなた。杏香ちゃんももう高校生なのよ?彼氏がいてもおかしくないわよ」
「でも……こんなに早く紹介されるなんて……」
 その落ち込みようはまるで、娘を嫁にやる父親さながらだ。
 その姿に芹が苦笑していると、冷たい声が室内に響いた。

「よかったじゃないの、素敵な彼氏を掴まえれて。ねぇ?」

 その声は、室内にいた年配の女性のもので。
 表情はあくまでにこやかなのだが、何故だかそこに冷ややかな空気を芹は感じた。
 と、芹は不意に自分の服の裾が引っ張られた感じがして、視線を向ける。
 すると杏香が僅かに服の端をギュッと握っているのが分かった。
「あ、の……私達は、もう帰りますねー?あんまり長居しても、赤ちゃんが緊張して疲れちゃうかもですしー」
 明るくそう言う杏香だったが、芹には震えているように見えた。
 そんな杏香を、両親は引き止める。
「折角久し振りに会ったんだし、もう少しいいだろう?」
「そうよ。それに、杏香ちゃんはお姉さんなんだもの。この子の事、抱っこしてあげて?」
「……この後、バイトがあるので、もう帰らないと……今度またゆっくり来た時に抱っこさせて下さいねー?」
 杏香はそう言って、名残惜しそうにする両親に手を振って病室を出る。
 その間、ずっと芹の服の裾をギュッと掴んだままで。


 病院を出てからも、芹の服を掴んだままだったので、芹は気になって声を掛けた。
「杏香……大丈夫?」
「だ…いじょ、ぶ……です……」
 だが芹にはそう見えなかった。
 杏香がとても辛そうで、思わず優しく抱き締めていた。
「杏香。辛いなら僕に話して?」
 すると杏香は、ぽつぽつと話し始めた。

 杏香の新しい母親は桔梗さんといって。
 病室にいたのは、桔梗さんの母親……つまり、杏香にとっては義理の祖母に当たる人だ。
 その人は、赤の他人である杏香をよく思っていないようで。
 杏香が桔梗さんを“お母さん”と呼ぶと、眉を顰めるのだという。
 だから杏香は余計に、祖母に当たるその人を、何て呼んでいいか分からない。

「……あの人は、お父さんとお母さん……桔梗さんの結婚を、最後まで反対していたみたいで。多分、その理由は私なんだと思います……」
 せめて父親と血が繋がっているのならともかく。
 杏香は実の両親に捨てられたも同然の子供だから。
「桔梗さんを“お母さん”って呼ぶと、あの人は嫌がって。でも“桔梗さん”って呼ぶと、お母さんが悲しそうな顔をするんです」
「……家を出たのは、本当はそれが理由?」
 思い切って芹がそう聞くと、杏香は半分だけ、と答えた。
「高校受験の頃に、お母さんの妊娠が分かって。その後からちょくちょく、あの人がお母さんの様子を見に来るようになって……」

 桔梗は悪阻つわりが酷い方で。
 だから家の事に手を付けられない方が多かった。
 杏香は手助けをしようとしたが、高校受験を控えていたので、だから桔梗の母親が時たま面倒を見に来たのだ。
 だけど、杏香に対しては冷たくて。
 だから高校に入ったら一人暮らしをしようと決めたのだ。

「赤ちゃんの環境を考えると、私が一人暮らしをした方が丸く収まると思ったんです」

 自分を嫌っている相手と顔を合わせるのが嫌だから、ではなく。
 負の感情を僅かでも感じ取れるような環境で、赤ちゃんを育てさせたくなかったから。

「今日、ちょっとだけ怖かったんです。あの人に会うのが。だから、芹君がいてよかったです」

 拒絶されるのが、怖かったから。
 だから杏香はあの時、震えていたのだ。
 それでも、大好きな両親に心配を掛けたくなかったから。
 だから明るく振舞った。

「芹君……これからもちょっとだけ、頼っていいですか……?」
 それはこの前、“いつでも遠慮なく頼って”と芹が言った言葉から来るものだろう。
 おずおずと言われたその言葉に、芹は笑顔を向けて言う。
「……ちょっとだけ、なんて言わずに、もっと頼っていいよ?」
 すると杏香は、はにかむような笑顔を見せた。


=Fin=