≪それは突然に≫
それはある日の夕食の席での事だった。
「そうそう、咲ちゃん。今度町内会の温泉旅行があるのよ」
「温泉……ですか?」
「そう。一泊なんだけど、でも平日なのよねぇ」
平日では咲は学校があるから無理だ。
この家の家主である直樹の父は現在単身赴任中なので、もし彼女が温泉一泊旅行に行くとなると、この家には咲一人になってしまう。
それを心配しているのだ。
「私の事なら気にしなくてもいいですよ。一日ぐらいお留守番はできますよ」
「そう?」
咲がそう言うと、嬉しそうな返事が返ってきた。やはり行きたかったらしい。
「お土産、期待してます」
クスクスと笑いながら、咲はそう言った。
町内会の温泉旅行当日の朝、咲はこれでもかというくらいに心配された。
「いい?絶対に家中の鍵をきちんと閉めてから寝るのよ?最近は物騒だし、咲ちゃん可愛いから……」
「大丈夫ですよ。ほら、集合時間に遅れちゃいますよ?」
「ああ、そうね。じゃあ行ってくるわ。咲ちゃんも学校に遅れちゃうわ」
「本当。じゃあおば様、楽しんできて下さいね」
「ええ。お土産、たくさん買ってくるからね」
そうして玄関で別れて、咲は学校に行った。
お昼休みになって、咲は桃花と幸花にその事を話す。
「じゃあ今日は咲ちゃん、夜一人なの?」
「うん、だから晩御飯どうしようかなって。幸花、何か簡単に出来る料理ってある?」
こういう事は、普段家で料理をしている幸花に聞くのが一番だ。
「簡単に?うーん……野菜炒め、とか?あ、この間調理実習で作ったハンバーグとかは?」
「そっか。それなら大丈夫だよ」
そう言ってニッコリと笑う咲に、桃花と幸花は声を潜めて聞く。
「やっぱり、先生に作ってあげるの?」
「え、な、何でそうなるのっ」
「だって……家に一人じゃ心細いからって、来てもらうのかなって」
二人のその言葉に、咲の顔は真っ赤になる。
考えもしていなかった。そんな事。
でも。
もし来て欲しいと言って、彼が来てくれる事になったら……。
「二人きりの、甘い夜?」
まるで咲の心を読んだかのような桃花の声に、咲は思い切り慌てる。
「なななな何言ってるの、桃花っっっ!」
「真っ赤になって、咲ちゃん可愛い」
クスクスとそう言う幸花に、咲は眉を八の字にして困ったような声を出した。
「もう〜っ、二人ともからかわないでぇ……」
そんな様子の咲に、二人はやはり可愛いと思うのだった。
学校が終わって一度家に帰ってから、咲は冷蔵庫の中身をチェックして、今日作る夕飯に必要なものを買いに行く。
すると、直樹から電話があった。
「直樹さん、どうかしたんですか?まだ部活中じゃ……」
『どうかした、じゃないだろ!今日家に誰もいないんだって?向井経由で龍矢から聞いたぞ』
「あ、はい」
『どうして俺に知らせない』
「え、だって一晩だけですし」
『一晩でも心配だ。部活が終わったらすぐに帰るから。じゃあ後で』
言うだけ言って電話を切った直樹に、咲は嬉しさ半分、戸惑い半分だ。
「……夕食、直樹さんの分もいる、よね」
手料理を食べさせる事になった、という事態に咲は、緊張した。
必要な物を買って下拵えなどをしていると、直樹が来た。
「全く……最近は物騒なんだし、一人でいる時に何かあったらどうするんだ」
不機嫌そうにそう言う直樹に、咲はしゅんとする。
「ごめんなさい……」
「今度からは、ちゃんと言う事」
「はい」
咲が頷くと、直樹はようやく機嫌を直したようだ。
「で、何作ってるんだ?」
「あ、ハンバーグを。今日の夕飯です」
「……咲の、手料理?」
「他に誰が作るんですかー」
むぅ、と口を尖らせて言う咲に、だが直樹は途端に満開の笑みを浮かべた。
「咲の手料理か。楽しみだな」
「き、期待しないで下さいよ?この間調理実習で作りましたけど、あの時は幸花もいたし……」
「咲の手料理なら、何だって喜んで食べるよ」
そう言う直樹の甘い視線に、咲はお昼に桃花が言っていた事を思い出して、途端に顔を真っ赤にさせる。
「咲?」
「あ、あの……夜はどうするんですか?」
「夜?勿論泊まるけど」
泊まり、という言葉に咲はますます顔を赤くさせる。
『二人きりの、甘い夜』
その単語が頭から離れない。
咲が必死にその言葉を忘れようとしていると、いつの間に傍に来たのか随分と近い位置から直樹に顔を覗き込まれていた。
「咲?顔が赤いぞ」
「っ!や、いや、何でもないですっ!」
慌てて顔の前で両手を振りながらそう言うと、その手を掴まれた。
「もしかして、意識してる?」
「――っ!」
耳元で囁くように言われた言葉に、咲はビクッと体を震わせ、目を閉じる。
「まるで“襲って下さい”って言ってるみたいだ……」
「襲……っ!?」
びっくりして目を開けると、突然口をキスで塞がれた。
「ん……んぅ……」
次第に深くなる口付けに、咲の体から力が抜けそうになった時。
突然、家の電話が鳴った。
「直樹さん……電話が……」
直樹はチッと舌打ちすると、不機嫌そうに電話に出る。
「もしもし?」
『……直樹?何でアンタが電話に出るのよー』
「姉貴……?」
電話の主は、直樹の姉の直枝だった。
『ま、いいわ。今日、母さん町内会の温泉旅行でいないでしょ?咲ちゃんが心配だからーってさっき電話があったのよ。だから今からそっちに行くって伝えて?』
「俺がいるから来なくていい。大体、旦那はどうするんだ」
『アンタと二人きりなら余計に行かなくちゃ。旦那は……んーたまには照之と二人きりにさせるってのもアリかも。じゃあね』
「あ、おい!」
電話はあっさりと切られて、直樹はやり場のない怒りやその他諸々をどこにぶつけていいか分からなくなった。
「あの、誰から……」
「……今から姉貴来るって」
「お姉様が?」
それを聞いて、咲は内心安堵した。
あのままだったらきっと……。
でもそれもちょっと惜しかったかな、とも思う。
「じゃあハンバーグ、三人分にしないとダメですね」
咲はそう言って、また夕食の下拵えに戻った。
思いがけず二人きりの夜はなくなったけど。
まだ、いいよね?
=Fin=