桜涙 【春色】
けれど、そんな彼女を「生」へと引き戻したのは、朱里を拒絶していたはずの妹と、幼馴染みだった。
『……帰ろう』
『帰ろ、朱里ちゃんっ』
伸ばされた手。避けていた温もり。それが朱里にとってどんなに嬉しかったか、きっと彼らは知らない────……。
ずっとベッドの上に寝ていたから、多分体力も落ちているだろうと、朱里は家から学校までの道をのんびりと歩いていた。
春の風が心地好い。もう二度と、感じることはないと思っていた風が吹く。
ゆっくり、ゆっくり……体が疲れない程度の歩調で、今まで気付かなかった周りの景色に目を移しながら歩く。
「朱里っ!?」
もうすぐ学校にたどり着く頃、真横から慌てた低い声が聞こえた。
「
家族と一緒に病院まで迎えに来てくれて、「後は家族水入らず、な?」と帰って行ったはずの彼が、足を速めて朱里の目の前に立った。
「何してんだよ! 退院したばっかなんだから大人しく、ってか
「お昼寝中?」
先に寝てしまったのは朱里だけれど、目を覚ましたら、隣のソファですやすやと眠る藍里の姿があったのだ。起こすのも気が引けて、一人で家を出た。
「あのバカ、見張ってろって言ったのに……。で、何してんだ朱里は」
「何って、……学校までお散歩」
「お前なぁ……」
お散歩、と告げた途端に、竜城がガクリと肩を落とす。朱里にはどうして彼が肩を落とすのか解らなくて、少しだけ戸惑う。
「歩けないと困ると思って……。竜城は、どうしたの?」
「コンビニで消しゴム買ってた。朱里はこのまま帰るのか?」
目的地だった学校は目の前。ここまで歩くのに、普段の倍の時間を要してしまった。驚く程落ちた体力を憂いたけれど、取り戻せばいいのだと思い直す。
「帰る、というか……あとは行きたい場所がないから」
「なら、ちょっと付き合え」
「え?」
「いーとこ連れてってやる」
そして、くるりと背中を向けられて。朱里の胸が一瞬痛む。
ずっとずっと、向けられていた背中。藍里と並んで歩く姿を、いつも見ていた。
絶対に、振り向く事はないと、思っていたのに────。
「朱里? 行くぞ?」
冷たかった瞳が、今はとても優しい。朱里は頷くと、前を歩く竜城を追い掛けた。
「ここは……?」
「フラワーガーデン。おまえが入院してる間に開園したんだよ」
朱里と竜城がいる場所から、下にすぼまるように、まるですり鉢のような形で様々な春の花が植えられている。
石畳のような階段を下りれば、段ごとに一周出来るように道が作られ、朱里は下向きに咲く白い花の前にしゃがみ込んだ。
「可愛い」
「これ、何て名前? 良く見かけるけど」
朱里の隣に、同じように座り込んで、花びらの先に小さな緑色の点がある花の名を竜城が問い掛けてきた。
「スノーフレーク、鈴蘭水仙よ。……藍里みたいな花ね」
「待て。藍里はこんな清楚じゃないぞ!」
「そう?」
朱里の中の藍里のイメージはこの花に似ている。いつも怯えた瞳をして朱里を見ていて、竜城の陰に隠れていたから。それなのに、すごい勢いで否定されてしまって、朱里は小首を傾げた。
「藍里はな、えーと、あれだ、すっげ賑やかで、結構派手な花」
候補が多すぎて、予想がつかない。「植わってないかな」とキョロキョロと説明に困った竜城の視線が動き、「あ、あった」と彼が指差したのは、鮮やかな桃色の、下から上に向かって段々小さくなる穂のような花。
「金魚草?」
「こんな感じだろ、あいつは」
花言葉は「図太い」、「騒々しい」。竜城の藍里に対するイメージが花言葉に現れていて、……これを言うべきか言わざるべきか、朱里は悩んでしまった。
「あ。朱里、ソフトクリームあるぞ。桜アイスだって、食べるか?」
竜城の視線の先には、移動販売のアイスクリーム屋があった。立てられた旗の「さくらアイス」の文字が風で踊っている。
「私、お金持ってきてないから」
「そんぐらい奢ってやるって」
「でも」
「じゃあ二つよろしくね竜城ちゃんっ」
さすがに悪い、と思って断ろうとしたその時、背後から突き出された二本の指と可愛い声。
「藍里?」
振り向けば、あどけなく笑う双子の妹の姿があった。そんな藍里の頭を、竜城はベシッ、と容赦なく叩く。
「いったーい、何するのーっ?」
「よーやく来たな、このネボスケ! 俺、朱里の事見張ってろって言ったよな?」
「だって眠くなっちゃったんだもん!」
「威張って言うな! ったく……。二人とも、ベンチに座って待ってろ、買ってくるから」
「え、竜城……っ」
だからお金がないのだと言おうとしたのに、その前に「行ってらっしゃーい」と藍里が竜城に手を振ってしまった。傍にあるベンチにすとん、と座る藍里が、真正面に立つ朱里を見上げて笑う。
「良かったー。竜城ちゃんがメールくれなかったら、お父さんもお母さんも一緒に、朱里ちゃん大捜索だったよ」
そう言えば、来る途中で竜城がカタカタと携帯電話を操作していた事を思い出す。あれは藍里にメールをしていたらしい。だけど。
「……どうして?」
もう子供ではないのだし、まして、今まで気にかけられた事すらなかったのに、どうして大捜索なんて言葉にまで発展するのだろう?
「心配しちゃ、ダメ?」
淋しそうに朱里を覗き込んでくる妹の言葉に、反射的に首を横に振る。「心配」なんて今まで縁遠いものだったから戸惑ってしまうけれど。
「ほい、桜アイス」
「わーいっ、ありがとーっ!」
差し出された桜色のソフトクリームに、藍里はすぐ手を伸ばしたけれど、朱里はそれが出来ない。躊躇っていると、「溶けるぞ?」と竜城の手が伸びてきて、朱里の手にソフトクリームを握らせた。
「お金……いいの?」
「いいって。まだ気にしてたのか?」
「だって……」
奢ってもらう理由なんてない、と小さく呟けば、既にアイスを食べ始めている藍里が「あのね?」と顔を傾けた。
「ありがとうって言えばいいんだよ、こういう時は。そんな事言ったら、私今まで竜城ちゃんに借金だらけだもん」
「そうそう。それを言い出したら、俺も藍里に借金だらけだし。だから、気にするな?」
「……あ、ありがとう……」
ぎこちなく礼の言葉を唇に乗せて、ぺろり、とソフトクリームをそっと舐めると、どことなく優しい味がして、朱里は無意識に微笑む。
「美味しい……」
「食べたら帰るか。あんまり朱里に無理させたくないし」
「私なら、大丈夫だけど……」
「ダメ。……また今度、ゆっくり来ような?」
その言葉が、未来の約束がとても嬉しい。どんな些細な約束だって、朱里にとっては幸せの欠片。
「竜城、藍里」
「ん?」
「なぁに?」
名前を呼べば、こうして振り向いてくれる。かつてあった怒りも怯えもその瞳にはなく、今は和やかに朱里の言葉を待っていてくれる。
「心配してくれて、ありがとう」
朱里が告げた言葉に、竜城と藍里は一瞬驚くような顔をして、そして。
本当に嬉しそうに、「当然だろ(でしょ)」と、春の花が一杯の景色の中で笑ってくれた。