桜涙 【離れていても、傍にいても】
他人の心を読み、傷を癒すという人ならざる能力を持った少女が、「死」の安息から引き戻されて一週間と少し。
今、少女の隣には、誰よりも守りたかった双子の妹と幼馴染みがいる。
*****
ぴんぽん、と玄関のチャイムの音。父はもちろん仕事だし、母は買い物に出掛けた。妹の藍里が帰って来たのかと、朱里は躊躇なく玄関の鍵を外し、扉を開けた。
「……あ。竜城」
「じゃないだろ!
「藍里かと思ったのよ」
「藍里だったら、自分で鍵開けて入るよ……。お前、妙なとこで無用心っていうか無防備、だよなぁ……」
はああ、と目の前で長い溜め息を吐いた幼馴染みの竜城は、突然朱里に人差し指を向けた。
「……人を指差しちゃいけませんって教わらなかった?」
「今それ関係ない。玄関を開ける前には、ちゃんと誰だか確認しなきゃダメだ。いいな? 俺だから良かったようなものの……」
ただでさえ物騒なのだ。最近では空き巣も多発しているし、訪問者の確認もせずにドアを開けるなんて以っての外。
(……まぁ、仕方ないか)
竜城は思う。訪問者を迎える立場になった事のなかった彼女ならば、と。
小さな離れは、本当に隔離された世界だったから。誰かが訪ねて来ることもなかっただろうし、まして誰かの家に朱里が行くはずもない。
「で、おばさんは?」
「買い物に行ってくるって言ってたけど」
「そっか。じゃ、待ってるとするかな」
お邪魔しますと告げて竜城が家に上がる。慣れたようにリビングに行く竜城の後を追う。何だか、竜城の方がこの家の住人のようだ。
「えっと……コーヒー、飲む?」
「気ぃ遣わなくていいって」
「でも……」
お客様に何も出さないのは気が引ける……。そんな気持ちが顔に出たのか、竜城がそっと苦笑した。
「……ん、じゃあ頼む。ブラックな」
「うん……!」
まずはお湯を沸かして、コーヒーメーカーに粉を入れて……覚えたばかりの手順をなぞりながら、朱里は二人分のコーヒーを入れた。自分の分にはミルクと砂糖をつけて、リビングへ戻る。
「はい、どうぞ」
「お、ありがと。……朱里は一個ずつか」
「え?」
「藍里が飲むコーヒーは、もはや甘すぎるカフェオレだからな」
ミルクポーションとスティックシュガーが1個ずつの朱里に対し、藍里はきっとミルクも砂糖も大量に入れるのだろう。
「……良く見てるのね」
「コーヒーも紅茶も、甘くしないと飲めないんだぞ、藍里は」
そう、と朱里は小さく呟いた。共通の話題がないせいか、必然的に会話は藍里の事になる。
「そういえば、藍里は? 一緒じゃないの?」
「東堂先生に呼びだされたから置いて帰ってきた」
「一海兄さん? ……何かしたの?」
「授業中ボケーッとしてたせいだろ。時々にまにま笑ってたけど」
授業中にぼけっとしていて、にまにま笑っていた? 双子とは言え、彼女の行動が想像出来ない朱里は首を傾げてしまった。
「……珍しいわね? いつも二人で帰っていたのに」
「今日は予定があったからな」
「え? 時間、大丈夫なの?」
予定があるのにこんなところに来ていていいのかと問いかけると、竜城は「違う違う」と笑った。
「俺の予定はここに来る事だから大丈夫だよ」
だけど、何の用事があるのだろう? 藍里に用があるのであれば、それこそ学校で言ってしまえばいいだろうし……と、彼が自分に用事があるとは微塵も考えない朱里は、またもや首を傾げた。
がちゃり。玄関の鍵が開く音がして、朱里はソファから立ち上がってパタパタとリビングの扉を開けに行った。
「……お、かえりなさい……」
まだ、この言葉を告げるのは怖い。言葉が返ってくるまでは、凄く不安だ。
「ただいま、朱里。お留守番、ありがとう」
ふふ、と笑った母の言葉に、朱里はホッと息を吐いた。胸を満たす安堵感が、知らず頬を緩ませる。
「お邪魔してます」
「あ、竜城くん。もう来てくれてたのね。あら、藍里は?」
「一海兄さんに呼び出されてるって……」
「授業中にボーッとしてたんで、多分お説教ですよ」
竜城の言葉に知佳は苦笑し、ソファのすぐ後ろにある台所前のカウンターに荷物を置いた。そして、一つの紙袋を持って、朱里に差し出す。
「朱里、はい」
紙袋を反射的に受け取ってしまってから、朱里はきょとんとした。
「少し遅れたけど、入学祝いよ。私とお父さんから」
「え……いえ、そんなの、もらえませ」
高校に入学させてもらえただけでも有り難いのに、その上お祝いなんてと朱里が躊躇うと、竜城が横から紙袋を奪い取った。
「開けた方が早いですよ、多分。この様子だと、何が入ってるか分かってませんから」
「ちょっ、竜城!」
取り出したのは、紙袋と同じぐらいの大きさの箱。そして中から出て来たのは……二つに折り畳まれた、桜色の携帯電話だった。
「携帯……?」
「受け取ってね、朱里。昨日みたいにいきなりいなくなっても、それがあれば連絡出来るもの」
「ほらな、やっぱり心配させてただろ?」
学校までの道のりを散歩しようと、そっと家を抜け出したのが昨日の事。今まで「心配」なんてされた事がなかったから、真っ直ぐにその感情を向けられても、戸惑いが大きい。
「でも……」
「いーから座る!」
強い声に、朱里は反射的にすとん、とソファに身を沈めた。
「じゃ、ほら。まずは電源入れて」
何が何だか解らないまま、手元の機械に指を滑らせる。電源を入れて、通話の仕方、電話帳の登録、赤外線の使い方。
一度で覚え切れるか不安になりながら、一つ一つ設定していく。
「そ、そんでこっちを押して……違う、右端の」
トン、とボタンを指す指先を、右手の親指で追い掛けて……ふと気づく。
竜城との距離が、とても近い事に。能力に鍵をかけているとはいえ、触れ合えるほど近くにいては、意図せぬ接触を生んでしまう。
けれど、今の時点で体を離すことはあからさまに思えて、朱里は小さく身を縮ませた。
「ん、じゃあそれで送信、って」
言われるがままに送信ボタンを押す。数秒後、「送信完了しました」の文字が出て、隣にいる竜城の携帯電話が着信を告げた。
「ほら、来た」
そうして画面を見せられる。仁科朱里、の文字が見える。
(……繋がってるんだ……)
画面の中の、ほんの4文字。自分の名前を見つけただけなのに、竜城との繋がりを目にした朱里は、何だか泣きたいような気持ちになった。
「まぁ、基本的な事はこれで終わり。あとは練習して徐々に覚えてけばいいよ」
「うん」
「俺もお前も同じ会社だから、電話代タダだし」
「そうなの?」
「そ。だから、遠慮しないでいつでもかけて来い。……さすがに深夜とかは困るけどな」
「そんな時間に電話なんかしないわよ」
自分だって寝ているのだから、と苦笑に苦笑を返した。
「そっか? 入学式の前日なんか、藍里、夜中の2時に電話かけてきたぞ。眠れない〜っ! って」
多分興奮していたのだろうけれど、それはさすがに非常識だろう。当然、竜城も「とっとと寝ろ!」と叱りつけたらしい。
「ただいまーっ!」
バタン、バタバタ、と立て続けに大きな音が聞こえて。隣に座る竜城は「……騒がしいのが帰ってきた」と溜息をついた。
「あーっ! 竜城ちゃんずるいっ! 抜け駆け!」
「先生に呼ばれるお前が悪い!」
「だからって先に行かなくてもいいでしょっ! 朱里ちゃん、ただいま!」
「お帰りなさい、藍里」
朱里の手の中にある桜色の携帯電話に気付いた藍里は、見せて見せて〜、と朱里の背後にすり寄ってくる。台所にいる母が「こら藍里っ、手を洗ってからにしなさいっ」と叱りつけるけれど、効果はなく。
「やっぱり! 竜城ちゃんが一番になってるー!」
え? と首を傾げた朱里に見せられたのは、登録された竜城の携帯番号。
「ずーるーいーっ。私が一番になるはずだったのに!」
「残念だったな、うん」
「……竜城ちゃん、確信犯っ」
「当然」
電話帳の一番になる事がそんなに重要なのだろうか? と朱里はきょとんとしながら、喚く藍里とそれを受け流す竜城の姿を見つめていた。
「ったく、解ったよ! ほらっ」
自分の携帯電話を操作した竜城が、目の高さにそれを持ち上げる。何をするのかが解らない朱里の首に、「わぁいっ」と藍里の腕が巻き付いてきた。
「あ、藍里!?」
「行くぞー」
カシャ、とカメラのシャッター音。そういえば、携帯電話にはカメラ機能も付いていたと思い出したのは、竜城の携帯電話の中に映る、笑顔の藍里に抱き締められている自分の姿を見てからだった。
「今転送するよ」
「あら、どうせなら三人で撮れば良かったじゃない?」
「いーのーっ、竜城ちゃんは!」
「……いつまで根に持つ気だよ……」
深々と溜息をつく竜城と、「ずっとー!」と笑顔で答える藍里。
ぴろりん、と朱里の携帯電話が着信を告げる。竜城に教えられながら、メールを開く。
池上竜城の名前と、写真の中に映る自分と藍里を見て、朱里は何だか心が温かいような、不思議な気分になった。
ほんの少しの微笑みを乗せた朱里の横顔を見て、竜城と藍里は顔を見合わせて笑った。
朱里はきっと知らない。藍里と竜城にとって、今、誰よりも大切なのは朱里自身だという事を。
【無知】という自分達の罪を贖う為ではなく。ただ、朱里と一緒にいて、朱里の傍にいて。家族として、友達として、一度は切れてしまった糸を縒り直して。
誰よりも近くで、朱里の笑顔を見ていたいと、二人が願っている事を。
*****
その夜、朱里がお風呂へ行こうとパジャマを持って部屋を出ようとした時、机の上の携帯電話が音を鳴らした。
「メール……竜城?」
今、家族以外でこの番号を知っている人は竜城だけだ。
『慣れない物使ったから疲れただろ? 今日はゆっくり寝ろよ。おやすみ』
家族以外には言った事も、言われた事もない言葉。離れているのに、伝えられる言葉。
心が、繋がる。ゆっくりと、確実に、少しずつでも。
一文字ずつ、慣れぬ手つきで文字を打つ。「送信完了しました」の文字を確認して、朱里は今度こそ部屋を出た。
そしてその頃、竜城の部屋では。
「朱里、だよな……?」
竜城が送ったメールに対しての、返信。ベッドの上に寝転がった雑誌を読んでいた彼は、文面を見るなり驚いてガバッと上半身を起こした。
『教えてくれてありがとう。竜城もゆっくり寝て下さい。おやすみなさい。またね』
また。メールとはいえ、朱里が「また」と言ってくれた。
傍にいていいのだと、言われているようで。また会いたいと、言われているようで。
「……やべ……にやける……」
緩みそうになる口元を片手で覆い隠して、竜城は返信しようかどうしようか迷うのだった。