≪純粋に≫


 それは、次の休みは何をしようかと二人で話している時だった。
「あの、工さん。その……行きたい所があるんですが……」
 少し言い難そうにそう切り出す水希に、工は首を傾げる。
「水希さんが行きたいというならいいですが……」
「実は……学校で音楽の講師をされていた方が、最近小さな楽団に入られたんです」
「楽団、というと……オーケストラですか?」
「はい。それで、チケットを頂いたので……工さんも一緒にいかがかと思って」
「オーケストラ鑑賞、ですか……」
 あまり乗り気ではなさそうな工の返事に、水希は申し訳なさそうに言う。
「あ、気を遣わなくても、苦手とかでしたら断わっていただいても……」
 だが。
「あ、いえ。別に嫌ではないです。ただ、その……問題があって……」
 その言葉に、今度は水希が首を傾げる。
「問題、ですか?」
 水希がそう聞くと、工は言い難そうに言う。
「……ええと、それが……フォーマルな服を、持っていなくて……」
 するとそれを聞いた水希は、微笑んで言う。
「大丈夫ですよ。アマチュアの楽団なので」
「そうなんですか?」
 驚いたようにそう言う工は、どうやら“オーケストラを聴く時はフォーマルな服装で”と思い込んでいたようだ。

 実際にはオーケストラもピンキリで、工のイメージ通りのモノから気軽に楽しめるモノまで、幅広くある。
 大抵は、会場の規模や座席の値段によって判断すればいい。

「流石にジーパンだと場違いでしょうから、ズボンにジャケットでいいと思います」

 工は普段、ジーパンにTシャツというのが定番だ。
 その方が楽だし、大工という肉体労働系の仕事で体ががっしりとしている為、なかなかサイズがなかったり、窮屈だったりするのだ。
 それでも、水希と付き合うようになってからは、彼女に合わせた服装をするよう心掛けてはいる為、きちんとした服装も多少は持っている。

「はい、分かりました」
 そう返事して、工は微笑みながら聞く。
「楽しみですか?」
「ええ。とても優しい先生でしたので」
 そう言う水希は、満面の笑顔だった。


 当日、工は言われた通りズボンにジャケット、水希はお気に入りのワンピース姿で家を出た。
 会場は大きなコンサートホールではなく、小さな市民ホール。
 水希は花屋で小さな花束を買って。
「先生にプレゼントですか?」
「はい」
 それを受付に預けて、席へと着く。
「会って話をされなくてもいいんですか?」
「ええ。開演前だと準備で忙しいでしょうし、帰りも片付けで忙しいでしょうから。花束にメッセージを添えましたし、話をするなら時間のある時の方がいいでしょう?」
「そうですね」
 そうして工がプログラムを見ると。

『歌劇 「フィガロの結婚」序曲 K.492:モーツアルト
 行進曲 《威風堂々》 作品39 第1番 ニ長調:エルガー
 アイネ・クライネ・ナハトムジーク ト長調 K.525 第1楽章:モーツアルト
 ラデッキー行進曲 Op.228:J.シュトラウス』

 そんな風に聞いた事のあるような、ないような曲目が並んでいて。
 どんな曲なのかさっぱり分からず、工が首を傾げていると、水希が説明してくれる。
「今回の曲目は、あまり音楽に馴染みのない人でも気軽に楽しめるような曲目みたいですよ」
「そうなんですか。ちなみに、先生は何の楽器なんですか?」
「ホルンなんです。トランペットが丸くなったような形の楽器ですよ」
「楽しみですね」
「はい」
 そう言いながら工は、取り敢えず途中で寝てしまうような事だけは避けたい、と思っていた。

 だがいよいよオーケストラの演奏が始まると。
 その綺麗な音色と、どこかで聞いたような旋律、そして生のオーケストラの迫力に、工は聴き入っていた。
 寝てしまうなどとんでもない。そんなの、勿体ない。


 公演が終わり、会場を後にして歩きながら、二人は先程の演奏について花を咲かせる。
「凄いですね、オーケストラって。迫力がありました」
「ええ。私も生で聴くのは初めてですけれど……心に染みる音楽とは、ああいうのを言うんでしょうね。情景が目に浮かぶようでした」
「テレビで聴いた事のあるような曲もあって、楽しめましたし」
「そうですね。それに比較的明るい音楽ばかりで、楽しかったです」
「こういう風に楽しめるなら、また来たいです」
「はい」
 そう話す二人は、互いに満面の笑顔だった。


 演奏の良し悪しは分からなくても。
 音楽とは、純粋に音を楽しむモノだから。
 敬遠する前に、聴いておいて損はない。


=Fin=