≪勉強の意義≫
「ごちそうさま」
夕食が終わり、水希は手を合わせてそう言うと、自分の分の食器を片付け早々に部屋へと引き上げる。
いつもならばテレビを見ながら談笑をするのだが、水希の学校ではもうすぐ定期テストがあり、その勉強をする為だ。
「水希さん。頑張って下さいね」
「はい」
工にそう声を掛けられ、水希は笑顔で返事をした。
水希が自室に戻ってから一時間程経った頃。
「水希さん。今よろしいですか?」
コンコンとドアをノックする音に続いて、工の声が聞こえてきた。
「はい。どうぞ」
水希がドアに向かってそう声を掛けると、手にマグカップを持った工が入ってきた。
「少し休憩しませんか?」
そう言って差し出されたマグカップには、温かいココアが入っていて。
「じゃあ、少しだけ」
ココアを受け取って、水希は微笑んだ。
「今は何の教科を勉強されていたんですか?」
「数学です。テスト範囲の公式は覚えてるんですが、どの問題にどの公式を当て嵌めるのか、やっぱり実際に問題を多く解かないと身に付かなくて……」
「数学、ですか……」
数学は工の最も苦手だった教科だ。
高校受験の時には、わざわざ家庭教師を付けられた程に。
その事を思い出して、工は思わず苦笑する。
「どうかしましたか?」
「いえ……家庭教師の先生の事を思い出して」
「家庭教師……という事は、中学の頃の?」
「はい。高校受験までの数ヶ月間、教えてもらったんですが」
そこで工はまた苦笑する。
「工さん?」
首を傾げる水希に、工は少しずつ話し出す。
「なんというか……とてもしっかりと“自分”というものを持っている方だったんです」
「“自分”、ですか?」
「はい。……勉強自体が苦手でしたから、最初はあまり気乗りしなかったんです。俺は就職を希望していた訳ですしね」
工は元々、高校受験をする気は無かった。
けれど親や先生といった周りの人間が進めるから、渋々受験する学校を決めた、という感じで。
家庭教師に対しても、親がお金を出してわざわざ来てもらっているから、という感覚しかなかった。
「ある時どうしても嫌になって。仮病を使った事があるんです」
工がそう言うと、水希はふふっと笑った。
「工さんでも、そういう事をしていたんですね。少し意外です」
「そうですか?……まぁ、とにかくその日は中止になったハズだったんです」
「ハズ……?」
「ええ。中止になったハズなのに、家に来ましたから」
部屋で漫画を読んでいたら、急にドアが開いて。
そこには家庭教師の先生が立っていた。
「ビックリしましたよ。来るなんて夢にも思わなかったですから。何も言えずに固まっていると、先生は一言だけ“仮病か”って言って」
直後、思いもかけない言葉が降ってきた。
「“そうだろうと思った。まぁ、お前の好きにしろ”って、それだけ言って帰ろうとしたんです」
「それだけ、ですか?普通そういう時って、わざわざ家まで来たんだから、何かしら言うんじゃ……」
「俺もそう思って、思わず呼び止めました。怒ったりしないんですか、って」
けれど、返ってきた反応は想像もしないものだった。
「“お前が決めた事に、俺が口出しする権利も義務も義理も無い。俺の仕事はお前が分からない箇所を教える事だけだ。俺にとっては、お前の高校受験すらもどうでもいい
話だし。お前が受かろうが落ちようが知ったこっちゃないし、俺には何の影響も無いからな”って」
「……本当にそんな事を言ったんですか?」
それは水希もにわかに信じがたい言葉だった。
「勿論、俺も言いましたよ。その言い方はあんまりだ、って。でも、更にキツい事を言われたんです」
それは、ある意味正論だった。
「“受験をするお前にやる気がないって事は、お前自身、受験をどうでもいいと思ってるって事だろ。勉強は誰かに言われてするモンじゃない。自分の為にするモンだ。
まして高校は義務教育じゃない。自らが己の為に進んで勉強をしに行く場所だからな”って」
「勉強は、自分の為に……」
「何も言い返せませんでしたよ。俺は周りに流されていただけだったから」
「工さん……」
「その人は、こうも言いました。“親や周りが高校に行けって言うのは、若い内に色々な事を学んで経験をするべきだと考えるからだ。将来何が役に立つか分からないからな。
けれど、最終的に決めるのは自分だ。自分の人生なんだから好きな事をすればいい。どうせ後悔するのは自分だけだ”と」
そう言われて、初めて気が付いた。
親や周りがあれほど高校受験を進める訳。
それは真剣に自分の事を考えてくれていたからなんだと。
ならばそれに応えて、高校生活を経験してみてからでも遅くは無いと思えた。
「そうして、忠告もされました。“但し、他人を巻き込む時はそれ相応の覚悟をしろ。やりたい事を考えて行うのは自主性だが、他人の迷惑を顧みず、好き放題やるのは
ただの我儘だ”と」
「……素敵な先生ですね」
「ええ。あの時言われた事は、俺の中で大事な指針になりました」
だからこそ、高校を自主退学した時も、その後も。
自分の考えの下、自立し、それを貫き通す事が出来た。
「その方は、今どうしているんでしょうね」
水希の疑問に、工は微笑みながら言う。
「春から数学教師になる事が決まっていた人でしたからね。同じような事を生徒に言ってると思います」
「そうですね」
そうして二人はもう少しだけ話をして。
「では、そろそろ俺はおいとまします。根を詰めすぎないようにして下さいね?」
「はい。勉強も健康管理も自分の為、ですものね」
「ええ。では、お休みなさい」
「お休みなさい」
そう言って工は水希の部屋を後にし。
水希は勉強を再開した。
テストが近付くと、勉強をして良い点数を取らなければと憂鬱になったりもするけれど。
勉強の意義は、あくまで自分の為。
=Fin=