≪過去の時間≫


 それはまだ、杏香が芹と出逢う前のお話――。


「――赤ちゃん?お母さん、赤ちゃんできたんですか?」
「ええ。最近体調悪かったのは、悪阻だったみたい」
 そう言うのは杏香の継母・桔梗だ。
「そうだったんですかー。おめでとうございますー」
「でも、そうなるとこれからが大変だな。悪阻、今以上に酷くなるんだろ?」
 心配そうにそう聞くのは杏香の継父・藤間(ふじま)で。
「私、家事とか手伝いますよー?」
「だけど、杏香は高校受験があるだろう?」
「そうですけどー……」
「母に頼んでみるわ。幸い、近くに住んでる事だし……杏香ちゃんは勉強の方を頑張って。ね?」
 桔梗の言葉に、杏香は頷く。
「分かりましたー。でも、ちょっとはお手伝いさせて下さいね?」
「ええ」
 その時は、和やかな雰囲気でそう話していたのだが。


 桔梗の母、つまり杏香にとっては義理の祖母に当たる人が時々家に来るようになってから、家の中が少しぎくしゃくし始めた。

「お母さん。気分、大丈夫ですかー……?」
「ええ、平気よ。心配しないで」
「無理、しないで下さいね?」
 リビングのソファで横になっている桔梗を見つけ、そう声を掛けた杏香に、義祖母から声が掛かる。
「ちょっとこっちにいらっしゃい」
「?はい」
 そうして台所まで移動した所で、スッと目を細められた。
「ウチの娘を、“お母さん”なんて呼ばないで頂戴。貴女は藤間さんとも血の繋がりがない、赤の他人なんだから。育てて貰えてるだけ有難いと感謝しなさいな」
「はい……」
「全く……御飯だけはついでだから作ってあげるけど、その他一切の事は、自分でしなさい。頼まれたって、お弁当や貴女の分の洗濯物なんかは知りませんからね」
 その目は、とても冷たいものだった。

 その日から、杏香は桔梗の事をいつものように“お母さん”とは呼ばなくなった。


「杏香ちゃん。母に何か言われた……?」
「桔梗さん……」
「母が来る前までは、私の事を“お母さん”って呼んでくれてたのに……藤間さんも心配してたわ」
 ある時、勉強をしていた杏香の所に桔梗が訪れ、そう聞いてきた。
「あの、お祖母ちゃんを、責めないであげてくれませんか?」
「やっぱり、何か言われたのね」
「……私が、悪いんです。お父さんともお母さんとも、血の繋がってない私が」
「そんな、杏香ちゃんは悪くないわ。誰が何と言おうと、貴女は私と藤間さんの子供よ?」
 必死な様子でそう言う桔梗に、杏香は嬉しそうに微笑む。
「……嬉しいです。でも……きっと、お祖母ちゃんもお母さんの事、大切に想ってるから」
「杏香ちゃん……」
「分かってあげて下さい。私は、大丈夫ですから。それに桔梗さんの事、ちゃんとお母さんって思ってますよ?大好きです」
「……私も大好きよ、杏香ちゃん。大切な娘として」
「はい」
 優しく抱き締められ、杏香も桔梗の背にそっと腕を回した。