それは、ある雨の夜だった。
 仕事から帰ってきた春花は、自身が暮らしているマンションの前で青年を見つけた。

 まるで、捨てられた子猫のようにそこに座り込んで、ずぶ濡れになっていた彼。
 思わず春花は手を差し伸べていた。
「どうしたの?そんな所で」
「……」
 虚ろな目で見上げてくる彼は、その瞳に何も映していないようで。
「私の家、来る?」
 春花はそう聞いていた。

 そうして、連れ帰ってしまった。
 一人暮らしの自分の部屋に。
 見知らぬ青年を。


≪Memory≫


「あ、ちょっと待ってて。今タオル持ってくるから」
 びしょ濡れの彼をタオルで少し拭いて。
 お風呂に入ってもらっている間に、着ていた服を洗濯する。
「う〜ん……着る物、これしかないかぁ……」
 何となく憧れで買ったバスローブ。
 結局買ったまま一度も使っていないけど、これなら男女兼用の物だし着れるだろう。


「お腹空いてない?今何か作るね」
 お風呂から出た彼に、取り敢えず服が乾くまでバスローブを着ててもらい、あり合わせのもので簡単に作って、夕飯として出す。
「……おいしい?」
 春花がそう聞くと、彼は僅かに頷いた。
「あ、そうだ名前。私、若松春花。貴方は?」
「……わかりません」
(あ、しゃべった)
 そう思って、だが言葉の意味を考える。
「……記憶喪失、とか?」
「……みたいです」
 そうして、暫く沈黙が流れる。

 記憶喪失という事は。
 自分の事を、何も憶えていない状態で。
 まるで迷子の子猫のようだ。

「……名前、何か決めなきゃね。ないと不便だし。何かある?」
 彼は少し考えて、首を横に振る。
「ハルカさんが考えて?」
「……そうねぇ……雫。どうかな、シズクって」
「シズク……うん、いいかも。……でも少し、綺麗すぎるかな」
「そうかな……私は合ってると思う」
 春花がそう言うと、雫は少し照れたように、だが、とても綺麗に笑った。


 春花は社会人だ。だから平日は勿論会社に行く。
 雫を家に招き入れた次の日、春花は会社を休んで雫を一度医者に見てもらおうと思っていた。
 なのに。
「記憶喪失なんて、病院に行ったら治る、っていうモノでもないでしょう?薬を出してもらえる訳でもないし。それに、特に外傷がある訳でもないから、わざわざ分かり切った事を診断してもらって、お金払うのなんて、勿体ないでしょう?」
 そう言われて、春花は渋々頷いた。

 会社で春花は雫について考える。

 雫は……大学生くらいだろうか?
 記憶を失っているから大人しいかと思っていたが、普段から大人しい性格なのかもしれない。
 近くの大学……といっても、どこも春花の家からは似たような距離だ。探すのは難しい。
 結局は記憶が戻るのを待つしかないのかもしれない。


 それから暫く、雫は春花の家で生活をしていた。
 名前も、年も、どこに住んでいたのかさえ分からない雫。
 身分を示すものは何も持っていなくて。
 彼が言うには、“目が覚めたらあそこで雨に濡れていた”だそうだ。
「どうしてこんな所にいるんだろう?って思って、そうしたら何も思い出せない事に気が付いて。ハルカさんが声掛けてくるまで、ずっと途方に暮れてた」
「でも、雨宿りくらい思いつかなかったの?」
「だって、気が動転してて……」
「……そっか」


 日が経つにつれ、春花は何となくこのまま彼の記憶が戻らなければいい、と考えるようになってきていた。
 本当はそれがダメな事ぐらい春花には分かっている。
 だけど。

 家に帰ると、待っていてくれる人がいる。
 優しい笑顔で、迎えてくれる人がいる。
 甘えるように擦り寄ると、戸惑いながらも、自分を受け入れてくれる人がいる。

 それは、ずっと一人暮らしをしていた春花にとって、とても嬉しい事だった。

「ねぇシズク?」
「何、ハルカさん」
「……よく聞くよね。記憶が戻ったら、記憶喪失の間の事、全部忘れちゃう事があるって」
「……ハルカさん……?」
「忘れちゃ、ヤだよ? 忘れないでね?」
 突然、今にも泣き出しそうな顔でそう言う春花に、雫は優しく髪を撫でてやる。
「どうしたの、ハルカさん。何か、あった?」
「ううん、何でもないの。ちょっと、そう思っただけ」
 だが、その笑顔は儚げで。
 雫は自分の額をコツンと春花の額に当てる。
「何でもない事ないでしょ?話してみてよ、ハルカさん。それとも、聞いたら迷惑?」
 優しい問いかけ。
 その事に、春花はするりと自分の気持ちを口にする。

「好き……シズクの事が、大好きなの……」

 春花は泣いていた。
 記憶が戻れば、彼は自分の前から姿を消してしまう。
 それが物凄く怖くて。

「一目惚れ……だったのかも……じゃなきゃ、私……」

 一人暮らしの家に連れ帰ったのも、多分それが理由。
 日が経つにつれ、その想いは大きくなって。
 彼のいない生活を考えるだけで、不安になる。

「忘れないよ」

「え……?」
 宥めるように囁く声音に、春花は雫と視線を交わす。
「忘れない。ハルカさんの事、絶対に忘れたりなんかしない」
 だから泣かないで、と言って、雫はチュッと触れるだけのキスをする。

「好きだよ」

 優しい笑顔でそう言われて、春花は嬉しくなる。
「私も好き、大好き」
「うん。だから、約束。絶対に忘れないよ」
「うん、約束」
 二人は指切りを交わして。
 その後、啄ばむようなキスを交わしながら、二人は想いを確かめ合った。