その数日後。
突然、彼の記憶は何の前触れもなく戻った。
それは、休日に二人で部屋でのんびりしている時だった。
雫は急に頭を抱えると、苦しそうに呻きだした。
「シズク!?どうしたの、頭痛いの?」
そうして、それが治まった直後。
彼はぼんやりと周囲を見回し、春花に視線を向けると言った。
「……誰、ですか?」
「え……シズク?何を言ってるの……?」
それは、春花がずっと恐れていた事だった。
「シズク?……誰ですか、それ。俺、葉月実(はづき みのる)っていうんですけど。それよりココ……どこですか?」
その言葉に、春花は自分の中で何かが崩れていくのを感じた。
「忘れ、ちゃったの……?約束……したのに……!」
涙が、溢れた。
「ねぇ……どうして忘れるの?約束、したじゃない!絶対忘れないって、言ってくれたじゃない……!」
春花は両手に顔を埋めて泣きじゃくる。
春花のその様子に、雫――いや、実はうろたえる。
「俺は……アンタなんか知らない」
「シズク……っ」
「よくわかんないけど、お邪魔しました」
そう言って出て行く後姿を、春花は見送る事しか出来なかった。
家への道を歩きながら、実は言い表しようのない気分になっていた。
あの人は誰だ?
何で泣いていた?
シズク、ッテ、ダレダ?
「……泣くなよ……」
そう呟いて、実はどうしても彼女が気になった。
「……クソッ!」
泣き顔が、忘れられない。
「……シズク……」
これからどうすればいいのだろう?
また一人ぼっちだ。
しかも、以前の状態に戻るだけ、という生易しいものではない。
大好きな人が、自分の事を忘れてしまった。
これは、罰だろうか?
彼の記憶が、戻らなければいいと願った罰。
「忘れないって、約束したのに……」
「ハルカさんっ!」
「……え」
一瞬、幻聴かと思った。
その声がそう呼んでくれる事は、もうないハズなのだから。
だが。
「ハルカさん……ごめん……っ!」
今度は抱き締められた。
「忘れてごめん、約束破ってごめん……泣かせて、ごめん……!」
「シ、ズク……?」
「ハルカさんが泣いてるの、嫌だと思って引き返してる内に思い出した。シズクって俺の事だよね?ハルカさんが俺にくれた名前だよね」
今のこの現実が信じられなくて。
それでも春花は必死に頷く。
「約束、したんだよね。記憶が戻ってもハルカさんの事忘れないって、絶対忘れないって。なのに、俺……」
「いいの!だって、思い出してくれたんでしょう?ううん。思い出す前に、引き返してくれたんでしょう……?」
「うん。だからハルカさん、もう泣かないで……?」
「シズク〜っ」
だが、嬉しくて春花はまた泣き出してしまった。
「ねぇハルカさん」
「……なぁに?」
暫くして泣き止んだ春花は、今は甘えるように彼に寄り添っている。
「俺、ここに住んじゃダメかな」
「ここに?」
「うん。ハルカさんを一人にさせたくない……というか、俺が一緒にいたい」
「……嬉しい」
そうして二人はキスを交わした。
ちなみに記憶喪失の原因はというと。
道を歩いていて、丁度マンションの前を通りかかった時に、細い路地なのに乱暴な運転をする車が通って。
慌てて避けた時に電柱に頭をぶつけたらしい。
それでうまく電柱の陰に座り込むようにして気絶したらしく、丁度辺りも暗くなりかけて人の通りもなかった為、雨で目が覚めるまで誰にも発見されなかったんだろう、という事だった。
それから後日。
「シズク……じゃなかった、ミノル」
「もうどっちでもいいよ。シズクって名前も結構気に入ってるし。で、何?」
「今日のご飯、何がいい?」
「んー。そうだなぁ……」
二人は一緒に住み始めた。
「あ、ハルカさん」
「何?」
「愛してる」
「ん……私も」
二人で一緒にいる幸せを感じながら。
=Fin=