≪包みたい心≫
窓から日が差し込むのどかな午後。
今までノートパソコンに向っていた春斗が作業を終え、清良にある提案をした。
『清良さん。僕、これから出版社の方に行く用事があるんですが、よかったら一緒に行きませんか?』
「出版社?」
『翻訳原稿が上がったので、届けに行こうと思って。ついでにデートでもしませんか?』
「それはいいけど……普通そういう原稿って、担当者が取りに来たりするもんじゃないの?」
清良がそう疑問を言うと、春斗はあっさり答える。
『締め切りより大分早く終わっちゃったんで。ほら、連絡しようにも僕は喋れないから』
「それならメールとかでもいいんじゃない?」
『それだといつ取りに来るかわからないし、それなら持っていって出版社に預けとけばいいんですから』
その春斗の言い分に、清良はまぁいいかと思って、二人は早速出版社に出かける事にした。
出版社へは電車で出掛けて。
オフィスビルが立ち並ぶその一角に、目指す出版社の自社ビルがあった。
「……結構でかいトコなんだ……」
だが春斗は迷う事なく進んでいく。
清良は春斗を見失わないようにしながら、初めて見る出版社内を物珍しそうにきょろきょろと見ていた。
「朝霞さん!」
ある部屋に入ってそこで暫く待たされていると、人の良さそうな男の人がやってきた。
『僕の担当編集者の邦山(くにやま)さんです』
「……珍しいですね。朝霞さんが誰かと、しかも女性と一緒にいるなんて」
驚いたようにそう言う邦山に、春斗は満面の笑みを向ける。
『彼女は特別ですから』
「惚気ですか?で、本日はやっぱり、もう原稿が?」
そう聞かれて春斗は頷き、USBメモリを渡す。
「ありがとうございます。もう本当、助かりますよ。朝霞さんみたいに余裕を持って原稿を上げてくれる人ばかりだったらいいんですけどね……」
それを受け取りながら、邦山はそう言って苦笑した。
その事にふと疑問を持って、清良は口に出す。
「春斗って、そんなに翻訳するの早いの?」
すると、邦山が嬉しそうに言った。
「もう早いのなんのって!他の人がやるより絶対に2〜3日は余裕を持って上げてくれるから、こっちとしても大助かり。確か朝霞さんは英検準1級持ってましたよね?」
英検準1級というのを聞いて、清良は驚く。
「ちょ……それって凄いじゃんか!何が“僕は結構辞書に頼ってるから”だよ!自力で翻訳できるんじゃん!」
『英検なんて、結構前の事ですよ。喋らなければ段々忘れていくものですし』
「でも、本当なら1級だって取れてたかもしれないんでしょう?」
邦山にもそう言われ、春斗は苦笑する。
「何で?今からでも1級取ればいいじゃん」
不思議そうにそう言う清良に、邦山が説明する。
「英検3級以上は必ず面接があるんですよ。そこではスピーチや簡単な質疑応答をしなくてはならなくて……」
「あ……ごめん」
喋れない春斗には、到底無理な話だ。
『いいんです。清良さんが謝る事じゃないですよ』
「ん……」
だが清良の返事は曖昧で、表情も浮かない。
春斗は溜息を吐くと、邦山に告げる。
『どこか変な和訳になっている所は、またFAXでもして下さい。では、僕達はこれで』
「ああ、わざわざ原稿をありがとうございました」
そうして春斗は清良を連れて出版社を後にする。
暫くしてもまだ浮かない表情の清良に、春斗は訊ねる。
『清良さん?まだ気にしてるんですか?』
「だって……」
『僕は気にしてません。それに、喋れなくなったからこそ、今こうして清良さんと一緒にいられる訳ですし』
その言葉に清良は複雑な顔をする。
「……何かアタシ、春斗にすっっっごく甘やかされてる気ぃすんだけど」
すると春斗は意外そうな表情をした。
『あれ。今頃気付いたんですか?』
「な……ッ!?」
『だって清良さん、誰かに甘やかされた事なんてないでしょう?だから、これからは僕が今までの分も、清良さんの事を甘やかしてあげますよ』
そのとんでもない発言に、清良は驚いてに目を瞠り、それと同時に顔を真っ赤にさせる。
「……っだから!そういう事は真顔で書くな、バカ……っ」
清良は春斗を睨み付けるようにそう言って。
だが。
「……アタシばっか、甘やかされるのは、嫌だ」
たどたどしくそう言いながら、清良は続ける。
「アタシばっかり、春斗の優しさに包まれてるのは、変だよ……」
そうして、春斗の胸元に顔を埋める。
「……春斗の心は、アタシが包んであげたい……」
清良のその言葉に、春斗は胸が苦しくなるのを感じた。
堪らず春斗は、清良の頬を両手で包み込んで顔を上げさせる。
「春、斗……」
二人とも、何だか泣きそうな表情で。
そっとキスを交わした。
お互いに辛い過去を持った二人だから。
お互いの心を優しく包み込んで、癒してあげたい。
=Fin=