終電も近くなった所で、毅は帰る事にした。
 流石に、泊まっていく訳にはいかないだろう。
 だが。
「もう遅い。泊まっていけ」
 意外な事に、そう言ったのは冴の父で。
「ですが……」
「二度は言わん」
「……はい」
「あら、毅君はお父さんに気に入られたみたいね」
 ふふっと笑いながらそう言ったのは、冴の母で。
 飲んでいる間も殆ど会話らしい会話はなかったのだが、冴の母がそう言うならそうなのだろう。
 毅と冴は、お互いに視線を合わせて、微笑んだ。

 冴の家はワンルームで。
 当然の事ながら、寝室には冴と冴の母。リビングに毅と冴の父が寝る事となった。
 布団に入って電気を消すと、冴の母が声を潜めながら言う。
「毅君とは上手くやってるの?」
「……うん」
「そう……。いい?冴」
「ん……何?」
「彼の事、絶対に手放しちゃダメよ」
「……うん」
 会話は、それっきり途絶えた。


 次の日の朝。
 朝食を終えると、冴と毅は冴の両親を見送る。
 この後観光をして、近くの温泉地で一泊するらしい。
 どうやら元々のメインは温泉旅行で。
 冴の所に来たのはついでらしい。
「お見合いでも勧めようかと思ってたんだけどねぇ……冴ったら。彼氏が出来たならそう言えばいいのに」
 冴の母はそんな事を言いながら、帰って行った。

「全く……急に来ておいて何言ってるのかしら」
 お見合いの話に少しだけむくれながら冴がそう言うと、毅は笑顔で宥める。
「まぁまぁ。結果的には良かったじゃないですか。俺の事も紹介できた訳ですし」
「毅君は私が来ないでって言ったのに来たからね」
 ツンとそっぽを向いて言う冴に、毅は苦笑する。
「それはだって、冴さんの態度が滅茶苦茶怪しかったんで、他に男でも出来たのか!?って心配になったんですよ」
「……そういえばそんなような事も言ってたわね。相手は誰だ、とか」
「だって、まさか冴さんに限ってって思ってたのに、玄関に男物の靴があるんですもん、焦りましたよ。何でご両親の事隠してたんですか?」
 改めてそう聞かれると、冴は渋々といった感じで話し始める。
「それは、その……両親が来てる、なんて言ったら、毅君はどうしたの?」
「え?そりゃあ手土産持参で挨拶に……」
「そうだろうと思ったから、言いたくなかったのよ。絶対に結婚がどうのって話になると思ったし……」
「冴さん、俺と結婚する気はないんですか?」
 傷付いたような目で、縋るようにそう言う毅に、冴は慌てて言う。
「そ、そうじゃなくてっ。まだ早いかなって……」
「冴さんの年齢を考えると、早い方がいい気がしますけど。あ、でも俺の方が都合が悪いですね」
 そう言って眉を寄せる毅に、冴は少しだけ不安になる。
「都合って……?」

「俺、冴さんには寿退社してもらいたいんですよね。でも、俺の稼ぎだけじゃまだちょっと厳しいし」

 そう言う毅は、至極真面目な表情で。
 思ってもみなかった言葉に、冴はどう反応していいのか分からない。

 寿退社……?
 私が?
 そんなの、考えた事もなかった……。

「結婚したら、会社に報告しなくちゃいけないじゃないですか。その事で周りがどんな反応をするか分からないし」
「まぁ、そうね」
「それに結婚したら一般的に配置換えさせられるでしょう?公私混同しないようにって。社内でならまだいいですけど、どっちかが遠方にでも転勤させられたら嫌じゃない ですか。結婚していきなり別居だなんて絶対にありえないし」

 社則には明記されていなかったと思うが、暗黙の了解として配置換えは有り得るだろう。
 そうしてこの場合。
 それなりに立場のある冴よりも、若手の毅の方が異動させられる可能性は高い。
 勿論社会人として経験を詰む為には、当然いつかは別の部署や別の支社に転勤という事もある。
 その時期が少し早まるだけ、と言えばそれまでだが、確かに結婚してすぐに離れ離れは冴も嫌だ。

 冴がそんな事を考えていると、毅は真剣な眼差しを冴に向けて言う。

「冴さん。今はまだ、無理だけど。でも、早めに出世して冴さんを養えるようにするから。それまで待っててくれますか?」

「――っ!」
 神妙な面持ち。
 真っ直ぐな瞳。
 それらを向けられて、冴は自分の体が火照るのを感じた。
 顔が熱い。
「冴さん、顔真っ赤」
「わ、分かってるわよ」
 弱々しくそう言った冴に、毅は満面の笑みを浮かべる。
「返事はOKって事でいいですか?」
「……はい」
 冴が目を伏せてそう言うと、毅は嬉しそうに冴を抱き締めた。

 暫くそうしていると、毅がポツリと言う。
「……俺、昨日の夜、冴さんのお父さんに言われた事があるんですよ」
「……?何?」
「『冴を頼む』だそうです」
「……」
 寡黙な父が言ったというその言葉に、冴は驚く。
「俺、冴さんの事、絶対幸せにしますね」
「……うん」
 そう返事をしながら、冴は心の中で両親に感謝した。


 タイミングとか、状況とか。
 それは人によって違うから。
 都合の悪さも、どう転ぶか分からない。


=Fin=