「さ、ご挨拶してきなさい」
ニコニコしながらそう言って背中を押してくる紅に、だがつづりは踏み止まる。
「ま、待って下さいっ!一体、何がどうして……」
「ふふっ。中に入れば分かるわ」
紅はそう言うが。
つづりはどうしても一歩が踏み出せない。
逢いたい気持ちは勿論ある。
というか、逢いたい。
けれど。
逢うのが怖い。
思えば、紅の予定が一日早まり、何の挨拶もなしに引継ぎしてしまったのだ。
しかも、文の寂しさを分かっていて、一人用の食事に戻してしまった。
怒っていない訳がない。
例え怒っていなかったとしても。
きっと傷付けてしまった。
それなのに。
今更合わせる顔なんて、ない。
「く、紅さん……やっぱり、私……」
逃げ出そうとするつづりに、だが当然、紅がそれを許すハズもなく。
「本橋さん……嫌なら自分で断りなさい」
そう言ったかと思うと、紅はさっと扉を開けて、つづりを中に押し込んだ。
「きゃ……っ!?」
「後はお二人でどうぞ」
そうしてさっさと扉を閉めてしまう。
「く、紅さん!?」
つづりは慌てて扉へと向き直る。
だが。
「つづり」
自分の名を呼ぶその声に、つづりはビクッと肩を揺らした。
一日ぶりに聞く声。
聞きたかった、その声。
それだけで、泣きたくなってしまう。
「つづり……こっちを向いて」
胸が締め付けられて、けれどその場から動けない。
ゆっくりと、文が近付いてくるのが分かる。
そうして。
まるで、壊れ物を扱うかのように。
つづりは文に、優しく抱き締められた。
「――っ!?」
「逢いたかった」
耳元に唇を寄せられて、囁くように言葉を紡がれる。
「つづり……僕の傍から、離れないで……」
「ふ、み……様……」
「僕は、つづりと一緒にいたい……それは、そう思うのは、迷惑、かな……」
「……な……そんな事、ないです……!」
文の言葉に、つづりは思わずそう言うと、彼の腕の中で体の向きを変える。
「わ、私は……私だって、文様と一緒にいたいです……っ!」
つづりが絞り出すようにそう言うと、文がギュッと抱き締める腕に力を込めてきた。
「……本当?」
「本当、です」
「傍に、いてくれる?」
「勿論です」
「なら、ずっと……僕の傍にいて、つづり」
「……はいっ」
そうして二人は、暫くの間、ずっと抱き合ったままで。
文がそっと腕を緩めると、二人で顔を見合わせて微笑み合った。
それから二人は、ソファに並んで座って。
けれど文は、つづりの手をずっと握ったままだった。
流石に恥ずかしくなったつづりは、おずおずと口を開く。
「あの、文様……その、手を……」
「ダメ。もう暫く、このまま」
「で、でも」
戸惑うつづりの言葉を遮るように、文は口を開く。
「……本当はね」
「は、はい」
「紅が戻ったら、つづりをずっと僕の専属に、って考えてたんだ」
「そう、なんですか?」
「だって、そしたらずっと、傍にいられるでしょ?」
「文様……」
「なのにつづりは、挨拶もなしに、引き継ぎ済ませちゃうし」
「ご、ごめんなさい……」
「だから、僕の事が嫌なのかと思った。つづりの大好きな小説家が、僕みたいなので、幻滅したのかなって」
「っそんな事!」
「うん、分かってる。……だから、つづりが今、ここにいるって、感じてたいんだ」
「……っ!」
文の言葉に、つづりは真っ赤になってしまって。
そんなつづりを、文は微笑みながら見ていた。
それは、二人だけの静かで、穏やかな時間。
こうして、極端に人と関わろうとしなかった、気難し屋で変わり者の次男は。
自分の事を理解してくれる女の子と出会って。
彼女の前では少しだけ、自分の感情を出すようになったのでした。
そうして。
二人の関係がもう少し先へ進むのは、また別のお話。
=Fin=