それはある休日の朝、突然やってきた。
「お願いっ!ちょっとの間でいいから照之預かって!」
 直樹の姉・直枝は慌てた様子で、玄関先に出てきた咲に、クーハンの中で寝ている息子の照之をそのまま押し付けるように受け取らせて。
「え、あの!?」
「必要なものは持ってきたから!後は母さんに任せておけばいいし。じゃあね、咲ちゃん!」
「あ……」
 戸惑う咲に何の説明もないまま、息子と荷物を置いて、去って行ってしまった。


≪予行練習≫


「ど、どうしよう……」
 取り敢えず中に入って、咲はクーハンごと照之を抱えたままオロオロする。
 本来ならば、別にここまで慌てる必要もないのだが。
 実は今日、家には咲一人だけなのだ。
「おばさまは夜まで帰ってこないし……」
 いつもなら直枝の母親であるおばさんがいるのだが、生憎と単身赴任中の旦那の所に出掛けていて。
 友達に助けを求めた所で、大して状況は変わらないだろう。
 そう思って必死に考えて。
「う〜……あ、そうだ、直樹さん!」
 ようやく直樹の存在に思い至った。
 彼なら大人だし、多少は心強い。
 そうと決まれば早速電話で助けを求めて。


「……で?今どういう状況だ」
 口元を引き攣らせ、イライラを無理やり押さえ込んでいるような言い方の直樹に、咲は小さくなりながら説明する。
「ぅ……えっと、ですね……おばさまは、電話でちょっと風邪気味だったおじさまが心配だからって様子を見に行っててですね……お姉様は、何だかとても慌てた様子で……」
「……百歩譲ってお袋はしょうがないとして……あのバカ姉貴は子供放り出してどこ行きやがったんだ!?」
 そう声を荒げる直樹に、咲はしーぃっと口元に人差し指を当てる。
「大きな声出したら照之君が起きちゃいますよ。折角今寝てるんですから……」
「……ったく、こっちは出掛ける予定だったってのに」
「あ……」
 忌々しそうに言われた直樹の言葉に、咲はそういえば今日はデートだったんだっけ、と思う。

 本当ならば、車で少し遠出する予定だったのだ。
 急に照之を預けられた事に気が動転して、そんな事すっかり忘れていた。

「……咲。お前、デートの事忘れてただろ」
「え!?あ、いや、そんな事は……っ」
 図星を指されて、咲は慌てる。
「完全に忘れてたな」
「……だって、突然の事で……」
「お前なぁ……」
 呆れたように溜息を吐かれ、咲はシュンとしてしまう。

 と、その時。
「オギャアー!」
 目が覚めたのか、急に泣き出した照之に、咲と直樹はすぐに傍に駆け寄る。
「な、直樹さんっ!ど、どうしましょう」
「落ち着け。……取り敢えず、オムツじゃないみたいだな。じゃあミルクか?」
 直樹の言葉に、咲はすぐに荷物の中を探す。
「ミルク……あ、荷物の中に粉ミルクと哺乳瓶ありますっ」
「じゃあ俺作るから。咲は照之抱っこしてやってて」
 そう言って台所に向かう直樹に、咲は不安そうに聞く。
「え……作れるんですか?」
「缶に作り方書いてあるからな」
「あ、そっか……」
「それより、作るまでに時間掛かるから」
「は、はい」
 言われて咲は、慌てて照之を抱っこしてやった。


 暫くして、ようやくミルクが出来た事に、咲はホッとする。
「人肌ってこれくらいでいいんだよな?」
「多分、大丈夫だと思います」
 そうして照之の口元に持っていくと、照之はようやく泣き止んでミルクを飲み始めた。
「よかった……」
「しかし、思ったよりも凄い勢いで飲むな」
「よっぽどお腹空いてたんですね」
 照之がミルクを飲まなくなった所で、哺乳瓶を放してやる。
「ミルクはもういいのかな?」
「咲、ちょっと貸して」
 そう言って直樹は照之を抱き上げると、肩に担ぐような体勢で照之の背中を優しく叩いてやる。
「直樹さん?抱っこするならもう少し……」
 首を傾げてそう言う咲に、直樹は苦笑する。
「違う違う。これはな」
 言いかけた所で、照之がゲップをした。
「……ミルク飲んだ後はこうやってゲップさせてやらないとダメなんだ」
 そう言って直樹は照之をクーハンに寝かせる。
「そうなんですか?直樹さん、詳しいですね」
「まぁ、知識としてあるだけだからな。一応、咲よりは長く生きてるわけだし?」
「でも、心強いです」
「そうか」
 そうして暫くは、荷物の中にあったおもちゃなどで照之の相手をして。
 照之が笑顔を見せる度に、咲は自然に頬が緩んでしまう。
 そんな咲を見て、今度は直樹が笑みを浮かべるのだが。


≪用語解説≫
 クーハン:小さな赤ちゃんを連れて外出するのに使われる持ち手のついた大きなかごの事で、ベビーキャリーなどとも呼ばれる。簡易ベッドとしても使われる。