文化祭の振り替え休日明けの今日。
 昼休みに俺は、とある部屋の前にいた。

 それは――『理事長室』。

 言わずもがな、月羽矢学園理事長の部屋だ。
 一介の生徒である俺が何故こんな所に足を運んだかというと、それは当然琴音に関する事で、だ。
 だって理事長は琴音の親父さんだからな。

 幾分か緊張しながら、俺は覚悟を決めてその重厚な扉をノックする。
「月羽矢学園高等部三年、弦矢弓近です。失礼致します」
 そうして扉を開けると、一礼してから中に入る。
 すると奥から、物腰柔らかな声が聞こえてきた。
「おや、弓近君。生徒会で何か問題でも?」
 ニコニコと。
 机の向こうから穏和そうな笑みを浮べて、理事長がそう話しかけてくる。
「お忙しい所、申し訳ございません。本日は生徒会副会長としてではなく、弦矢弓近一個人として参りました」
「そうか。で?何かな、改まって」
 理事長はそう言って机に両肘を付いて手を組むと、ジッと俺を見据えてきた。

 ただならぬプレッシャーを感じるのは、彼が月羽矢グループ総帥という立場ゆえか、はたまたこれから俺が言おうとしている事に対する、自身の錯覚か。
 だがここで、怖気付く訳にはいかない。

 ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み、俺は口を開く。
「……琴音から……琴音さんから聞きました。彼女は将来、親の決めた相手と見合いして、婚約する事になっている、と」
「……それで?」
「そこで、お願いがあります」
「お願い?」

「どうか俺を、琴音さんの婚約者候補に加えて下さいっ!」

 そう言って俺は、深々と頭を下げる。
 なんなら、土下座したっていい。それでこの願いが叶うなら。
「……君を、婚約者候補に?」
 幾分か驚いたようにそう言う理事長に、俺は顔を上げ、真剣な眼差しを向ける。

「はい。……確かに俺は、普通の一般家庭の出で、月羽矢という家には相応しくないかもしれません。でも俺は、昔から誰よりも近くで彼女を想ってきました。 その想いだけは、絶対に誰にも負けません。俺が月羽矢グループを背負って立つという事に不満や不都合があるなら、俺は琴音のサポート役でも構いません。 ただ、一緒にいたいだけなんです。誰よりも近く……彼女の隣に立つのは、俺でありたい。だから……お願いします、俺にチャンスを下さい!」

 琴音の隣。それだけは、誰にも譲りたくない。
 無責任な話かもしれないけど、俺には月羽矢グループなんて興味ないし、どうだっていいんだ。
 ただ、琴音が俺の隣にいてくれさえすれば。

「ふむ……それで?」
「それで……と言われても……」
 理事長の言葉に、俺は困惑する。
 え、他に何か言う事ってあるのか?
「琴音はどう言ってるのかな?」
「……琴音は知りません」
「どうして?」
「俺の気持ちを琴音に伝えた所で、彼女は本心を言わないと思うので」
「成程」
 そうして理事長は、黙って考え込んでしまった。

 やっぱり無謀な事だったんだろうか?
 でも、俺にはこれしか方法がない。
 他に思い浮かばなかったんだ。

 勿論、俺にとってこれは通過点に過ぎない。
 もし理事長が、琴音に複数見合いをさせて、最終的に誰か一人を選べ、という方法を取るなら、最終判断は琴音に任される事になるから。
 俺にとっては、そこで選ばれなければまだ諦めが付くんだ。
 問題は、その前に道を閉ざされる事。
 琴音の本心も何も聞けないまま、見知らぬ誰かのモノになるのを黙って見ているなんて、悔しいだろ。

 ただ何もせずに後悔はしたくないから。
 無謀でも俺は、俺にできる事をしただけだ。