初音と虎太郎は、暫く様子を見てから婚姻届を出した。
二十歳を過ぎれば親の承諾が要らないとはいえ、すぐに出しに行けば、見つかって連れ戻される可能性があったからだ。
勿論、式は挙げられなかったが、重要なのは二人で一緒にいる事なので、幸せだった。
初音は就職活動はしなかったので専業主婦になったが、何せ虎太郎と一緒に暮らし始めるまで家事などは一切やった事がなかった為、日々悪戦苦闘していた。
掃除と洗濯は、慣れればそれなりに出来るようにはなったが、料理だけはなかなか上達しなかった。
本を見ながら一から一人でやるとなると、細かい専門用語が分からず、どうしても限界があるのだ。
それでも虎太郎は、初音の料理を文句も言わずに食べてくれた。
虎太郎曰く、「俺の料理もこんな感じですから」だそうだ。
そんな感じで、日々は穏やかに過ぎていった。
そうして事態が急変したのは、初音が家を出てから一年と少し経った、とある梅雨の日だった。
ジメジメとした、梅雨特有の空気の中、この日も初音は家で家事にいそしんでいた。
「そろそろ晴れてくれないと、洗濯物が乾かなくて困るわね……」
外の天気を見て一人そう愚痴っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら……」
基本的にこの家に誰かが訪れる事はない。
来るとすれば、新聞の勧誘くらいだろう。
初音は特に何も考えずにドアを開ける。
「はーい、どちら様……」
だが、その訪問者を見て、初音は目を瞠り絶句する。
「お……父、様……」
それは初音の父親だった。
彼は部屋の中を一瞥すると、吐き捨てるかのように言う。
「……向日の娘が、こんな所で生活しているとはな」
「っ……!」
「さぁ、帰るぞ」
腕を掴んで強引に連れ出そうとする父親の手を振り払い、初音は言う。
「嫌です。私は、もうあの家には戻りません」
「そんな勝手が……許されると思うのか!いいから来なさい!」
「私は!……私はもう虎太郎さんと籍を入れたわ」
それを聞いて、初音の父親は顔色を変えた。
「何だと……っ!?」
そうして、初音の頬を思い切り引っ叩いた。
「っ……」
「何を考えているんだ、お前は!和幸君という婚約者がありながら、家を出て他の男と結婚?ふざけるな!」
「……」
だが初音は、痛む頬を押さえながら、俯いたまま何も言わなかった。