場所を静かなバーに移して、初音は自分の悩みを打ち明ける。
「清美も和幸さんも、お互いに想い合っているのにそうとは気付かずに、私がいるから言い出す事も出来ないでいるの……自分の本当の気持ちを隠したまま結婚しても、不幸になるだけだわ」
「初音さんは、その許婚の方の事が、お好きではないんですか?」
 驚くでもなく、苦笑するでもなく、ただ静かにそう問われ、初音は少し考えてから答える。
「……そうね。きっと尊敬すべき夫にはなっても、愛すべき夫にはならないと思うわ」
「それは何故です?」
「だって、分かってしまったんですもの。彼の気持ちが誰に向いているのか。それに……」
 初音はそこで少し言い澱む。
「……彼は、私が望むモノを持っていない気がするんです。それが何か分からないから、上手く説明のしようがないのですけれど」
 そう言って苦笑する初音に、虎太郎は真剣な眼差しを向ける。
「では……」
「?」

「私は持っているんでしょうか?貴女の望むモノを」

「え……」
 その言葉に初音はドキッとする。

 目を逸らす事が、できない。
 心臓の鼓動が。
 少しずつ、早くなっていく。

「あ、の……」
 だが、初音が何か言うよりも早く。
「……すみません、忘れて下さい」
 虎太郎はそう言った。
「あ……」

 自分は何を言おうとしたのだろうか?
 ただ、“忘れて下さい”と言われて、心が急速に冷えていったのは確かだ。

「そろそろお帰りになった方がいいでしょう。途中までお送りします」
「はい……」


 店を出て大通りに出ると、虎太郎はタクシーを捕まえる。
 そうして初音だけを乗せると、別れ際に遠慮がちに口を開いた。
「あの、初音さん。もしよろしければ、またお逢いする事はできませんか……?」
 また逢える。そう思うと初音は嬉しくなった。
「……ええ、喜んで!」
「……よかった。では、お休みなさい」
「お休みなさい」
 初音は、虎太郎の姿が見えなくなるまで、窓からずっと見ていた。


 虎太郎はどうやら、いつの間にかタクシー代を先に払っていたらしく、降りる時に初音は何だか申し訳ない気がした。
「そうだ……彼は、私が向日の人間だって、まだ知らないんだ……」
 最初に偽名を名乗って。
 そのまま本当の事を言わずに別れてしまった。
「……彼も、変わってしまうかしら……」
 本当の事を言って、態度が変わってしまった人は少なくない。
 友人と思っていた人でも、初音が向日の人間だと分かった途端に利用しようとしてきた。
「変わらないで欲しいな……」
 初音はそう呟くと、短く息を吐いた。