夕方頃に温泉宿に着くと、夕食までの時間は自由時間だった。
 そこで大抵の人はまず温泉に入りに行く。
 勿論、冴もその内の一人だ。

「はぁ……気持ちいい〜……」
 冴はこっそりと隅の方で湯に浸かり寛ぐ。
 そこに職場の女の子達の話し声が聞こえてきた。

「毅君、本当カッコイイわよね」
「この旅行を期にお近付になって、付き合ったりしちゃったりして〜」
「あ、ズルイ〜。私だって毅君狙ってるんだから」
「抜け駆けなんかしたら、女子社員全員を敵に回す事になるって」
「全員?」
「他の職場の子も皆狙ってるって話だよ?」
「そうなんだ。同じ職場でよかった〜。こうして一緒に旅行も来れるし、今頃他の職場の子達、悔しがってるんじゃない?」
「言えてる〜」

 そんな内容の会話に、改めて毅が他の子達にも人気があると認識して、冴は少なからず複雑な気持ちになる。

 毅君、やっぱりモテるんだ……。
 本当は隠したりなんかしないで、堂々と付き合いたい。
 そうすればちょっとは毅君狙いの子が減るのに。
 でも、もし付き合ってることがバレたら、後が怖い……っ。

 そんな事を思っていると、また話し声が聞こえてきた。
 今度は少しトーンを抑えてはいるが、ここは風呂場だ。
 反響して結構ハッキリと聞こえてくる。

「でもさー。毅君カッコイイから、もう彼女いるかもよ?」
「うそっ。でも有り得るかー」
「だとしたら、社内はないよね?大学時代から続いてる彼女、とか?」
「えー。でもそれはないでしょ。だって入社したての頃、確かフリーだって言ってたわよ」
「いつの間にそんな事聞いたのよー。でもフリーかぁ。私、断然頑張っちゃう!」
「私だってモーション掛けるわよ?」
「全員掛けるって。でも、バスの席はちょっとショックー」
「あーお局様?毅君の事、独り占めして超ウザイ」
「牧場体験の時もさー、いつの間にか必ずいるんだよねー。まさか毅君狙いだったりして!?」
「そうだとしたら身の程知らずだよねー。毅君が相手にする訳ないじゃん」

 ……本人ココにいるんですが。
 毅君が相手にしないんじゃなくて、彼の方から寄ってきたんですが。
 牧場での一件だって、バスの席だって。
 ……モーション、掛けないで欲しいなぁ……。


 夕食の時間になって宴会場に行くと、毅はもう他の男性社員と話をしていた。
 浴衣姿が様になっている。
 そんな事を思いながら、冴は毅とはかなり離れた位置に座る。
 少しでも近い位置に座りたかったが、先程のあの話を聞いた後ではそれも躊躇われる。
 そんな冴の気持ちとは裏腹に、女の子達はこぞって毅の傍の席を陣取る。
「毅君、浴衣姿似合うわね」
「……ありがとうございます」
「後でお酌してあげる」
「どうも」
 そんな声が聞こえてきて、冴は俯く。

 “私の毅君に近寄らないで”
 そう言えたら、どんなに楽か……。

 目の前の美味しそうな料理も、冴には何だか色褪せて見えた。


 そうして宴会が始まって少し経った頃。
 一人で黙々と食べていた冴の前に、フッと影が出来た。
 その事に反射的に顔を上げると、目の前には毅の顔。
「っ……どう、したの?」
 驚きながらも何とかそう言うと、急に怖くなった。
 今、周りの女の子達から向けられているであろう視線が。

 だが毅はそんな冴の心配を吹き飛ばすように笑顔で言う。
「いっつもお世話になってる紀平先輩に、お酌でもしようかと思って」
「あ、うん」
 周りにも聞こえるような、少し大きめのその声に、冴は内心ホッとすると同時に、毅がわざわざ来てくれた事が嬉しくなった。
 そうして注がれたお酒を飲んで返酌をすると、毅は一気にそれを飲み干す。
「紀平先輩、楽しんでます?」
「ええ、まぁ……」
「……そうっすか。じゃあ課長とかにもお酌してこよっかな」
 そう言いながら毅はさり気なく、料理が乗っている膳の上に何かを置いていった。
 何だろうと思ってみてみるとそれはメモだった。

 “後で庭で落ち合いましょう”

 その内容に冴は、一人笑みを浮かべた。