「つづり、ごめんね……」
 突然そんなふうに謝られ、自己嫌悪をしていたつづりは、ハッと我に返る。
「ど、どうして文様が謝るんですか?」
「つづりが怒るのも、無理ないと思う……章だって事、隠してたから」
 そう言って文は、シュンとしてしまう。
 どうやら文は、つづりが何も言わないのを、怒っているからだと勘違いしているようだった。
「お、怒ってなんかいません……むしろ私の方こそ、申し訳ございませんでした」
「どうして、つづりが謝るの?」
「だって、私……知らなかった事とはいえ、色々失礼な事とか言ってしまったと思って……」
 今度は逆に、つづりがシュンとしてしまう。
「そんな事ない……つづりの言葉、凄く嬉しかった」
 少し照れたようにはにかむ文に、つづりは真っ赤になって言う。
「そ、そんな……!私には勿体無いお言葉ですっ」

 つづりにとっては、文は想いを寄せる相手で。
 それプラス、大好きな小説家。
 そんな人から、“凄く嬉しかった”なんて言われて、嬉しくないハズがない。
 あまりにも嬉しくて、つづりの目には涙が滲んでいる程で。
 そんなつづりを見て、文は柔らかな笑みを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。


 夕食時は当然、文の仕事に関係する事が話題になって。
「――じゃあ、関口さんは原稿を取りに来てたんですね」
「うん。一応、内容をチェックするから、時間が掛かるんだ」
「今は、パソコンのデータなんですね」
「手書きの人もいるみたいだけど……ネットが資料代わりにもなるから、僕はパソコンの方が楽かな」
「そうだったんですね」

 パソコン一つでできる仕事。
 小説家なら、それも納得がいく。

 そうしてつづりは、一度聞いてみたかった事を、思い切って聞いてみる事にした。
「あ、あの……聞いてもいいですか?」
「何?」
「その……ペンネーム、なんですけど」
「うん」
「どうして、“章”って一文字だけなんですか……?」
 大抵の小説家のペンネームは、苗字と名前がそれぞれある。
 そうでない場合は、平仮名だったり、カタカナだったりして。
 漢字一文字というのは珍しいと思っていたのだ。
「……僕が考えた訳じゃないから……予想は付くけど」
 少しだけ眉を寄せる文は、ペンネームに少々不満があるようだ。
「……あの、誰が付けたんですか……?」
 何となく、関口さんだろうな、と思いつつも、つづりは一応聞いてみる。
「関口さんと……多分、兄さんも」
「彩様、ですか?」
 祭雅家の長兄の名が出た事に、つづりは少し驚く。
 けれど、啓太が“三兄弟と腐れ縁の関係”と言っていたのを思い出し、おかしくはないと思い直す。
「……関口さんは、元々、兄さんの同級生でね……それはもう、兄弟のように息が合ってたよ……」
 遠い目をしながらそう言う文は、げんなりとしていて。
 つづりは何となく、理解した。

 恐らくは、テンションの高い二人に散々振り回されたのだろう。
 そんな事が容易に想像できて、つづりは思わず苦笑してしまう。

「……そもそも、僕が小説家になったのは、さっきの小説を兄さんが勝手に関口さんに見せたのが発端だし」
「勝手に!?」
「当時、関口さんは既に出版社に勤めてたし……応募もしてないのに、出版が決まったって聞いた時は驚いた」
「……」
「あれよあれよと話が進んで……小説家なんて考えてなかったから、ペンネームなんて思いも付かなくて」
 そこまで言って、文は溜息を吐く。
「……そう言ったら、もう既にペンネームは“章”に決定した後だった。どうせ、僕の名前と繋げて“文章”になるから、とか、そういうくだらない理由だと思う」
 話が凄すぎて、つづりは最早何も言えない。
「……だから代わりに、デビュー条件として、経歴は一切不明にする事だけは、約束させたんだ」
「だから、章は謎の作家だったんですね……」
 どんな人物か全く分からない、謎の小説家。
 それには、想像も付かない経緯があったのだ。

「僕は騒がれるのは、あまり好きじゃない。……けれど、有名プロカメラマン・AYAの弟だと世間に知れたら、無名の小説家でも注目される」
 小説家がマスコミに注目されるのは、大抵の場合、大きな賞を取った時や、本人が元々有名人の時だけだ。
 もしかしたら、彩という存在がなければ、経歴を隠す必要はなかったのかもしれない。
「出版社側は、AYAの弟だと発表したかったみたいだけど」
 そう言って文は、肩を竦める。
 単純に目先の利益を追求するならそれでいいだろう。
 けれど、最初にネームバリューで売り出した場合、通常よりも酷評されて、その後の作品の売れ行きに影響する場合もある。
 きっと出版社は、長い目で見て、文の条件を受け入れたのだろう。
「今も時々、AYAの弟だって発表しないか、って言われるしね」
「そうなんですか」
 けれど、その必要はないとつづりは思う。
 そんな事しなくても、章の作品は世間に受け入れられると思うから。

「本当は、大学に行って……図書館の司書になろうと思ってたんだけど」
 文のその言葉に、つづりは笑みを浮かべて言う。
「……でも、そういった事があったから、今、私は……ううん、私だけじゃないです。章のファンは、文様の作品を読めるんですね」
「……そういう事なら、あの二人に感謝かな」
 そう言って二人は、顔を見合わせて笑った。