けれど、予想もしない事態というのは、いつだって起こりうるもので。

 それは、つづりが就寝前の文に挨拶を終えて、使用人用の離れに戻る時だった。
「本橋さん」
 後ろから声を掛けられ、つづりが振り向くと、そこにいたのは。
「え……紅、さん……ど、どうして?お帰りは明後日のハズじゃ……」
 他でもない、メイド長の紅だった。
 思ってもみなかった事態に、つづりは頭が真っ白になって。
「やっぱり、一週間も任せっぱなしは悪いと思って、実家の方の問題も予定より早く片付いたから、帰ってきたの」
「そう、なんですか……」
 そう返事をするので精一杯だった。
「貴女も休みなしで働いていたんだし、明日は一日お休みでいいわ」
「……はい、分かりました」
「文様はもうお休みよね?」
「はい」
「そう。私が居ない間、大変だったでしょうけど……ありがとう」
「いえ……」
「それじゃあ本橋さん、お疲れ様」
 そうして紅は、他の使用人を見つけて、そちらの方に行ってしまった。
 その場に残されたつづりは、暫く呆然とその場に立ち尽くす。

 こうなる事は、分かっていた事だ。
 それが一日、早まっただけ。
 なのに。
 まるで心にぽっかりと穴が開いたよう――。

 けれど頭は意外に冷静で。
「……厨房に、明日から文様のお食事は一人分でいいって伝えなきゃ……」
 ふらふらとつづりは厨房へ向かう。

 そうして、明日の仕込みで残っていたコック達の内の一人に伝えると、そのまま、またふらふらと厨房を後にしようとした。
 しかし。
「ねぇ、ちょっと。君、大丈夫?」
 後ろからそう声を掛けられ、つづりはぼんやりとした様子で振り返る。
 そこにいたのは、時々つづりに声を掛けてきていたコックで。
「何でしょうか……?」
 つづりがそう聞くと、彼は心配した表情を向けてきた。
「何か、あった?心ここに在らずって感じだけど」
「……いえ」
「文様に、何か言われた?」
 コックの口から出た文の名に、つづりは一瞬顔を歪ませて、首を横に振った。
「本当に?」
 確かめるように聞かれて、つづりは頷く。
「でも、じゃあ何でそんな悲しそうな顔してるの」
「……」
 けれどその問いかけに、つづりは何も答えない。
 いや、答えれないのだ。
 色々な感情が混ざり合って、どう答えたらいいのか、何をどう考えればいいのか分からない。
 ようは気持ちの整理がつけられない状態なのだから。
 すると、つづりの頭にポンと手が置かれた。
「あのさ。何があったか知らないけど、よかったら話聞くよ?同じ使用人仲間のよしみでさ」
 ニッと笑って頭を撫でてくる彼に、つづりはポツポツと話し始める。
「さっき……紅さんが、帰ってきたんです……」
「紅さんが?」
「文様のお世話は、紅さんが居ない間だけで……」
「うん」
「でも、私……明日までは、文様と居られると思ってて……っ」
「……うん」
「紅、さんは……わ、私の事、気遣って早く……帰ってきた、のに……」
「……うん」
「私……っ……文様と、もっと……一緒に、居たか……っ!」
「そっか……」
 途中から、つづりはしゃくりあげながらも、話を続けて。
 けれど、最後までは言葉にならず、顔を両手に埋めて。
 必死に、堪えるように。
 暫くそのまま、泣き続けた。
 その間、彼はずっとつづりの頭を撫でていてくれた。

「あの、すみませんでした……」
 暫くしてようやく落ち着いたつづりは、涙を拭いながら、恥ずかしそうに頭を下げる。
「大丈夫だよ。それに、泣きたい時は我慢しないで泣いた方がいいと思うし」
「……ありがとうございます」
「ね、一つ、聞いてもいい?」
 真剣な表情でそう聞かれ、つづりは少し戸惑いながらも頷く。
「もしかして、だけど。……文様の事、好きだった?」
「っ!」
 その言葉に動揺した様子を隠せないつづりに、コックは優しく微笑んで言う。
「答えなくていいよ。今ので大体分かったから」
「……すみません」
「謝らなくていいよ。でも、そっか……ちょっと、辛いね」
「でも……仕方ないです」
 そう言って微笑むつづりは、でもやっぱりどこか辛そうで。
「無理、しちゃダメだよ?」
 そう言うコックに、つづりは首を横に振る。
「覚悟は、してたんです。でも、それが急に早まっちゃったから、心が付いていかなかったんだと思います。でも、泣いたらちょっとスッキリしました。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて、つづりは微笑む。
「そっか……でも、俺にできる事があれば、力になるから」
「はい。本当に、ありがとうございます」
 そうして再び頭を下げると、つづりは厨房を後にした。

 その背を見送って、コックは溜息を吐く。
「……本当に。俺が本橋さんの力になれたらいいのに」
 そう呟きながら、頭を掻いて。
 彼は再び仕事に戻った。