紅が出て行ってから数分。
 つづりはどうしていいか分からず、その場に立ち尽くしてしまった。
 けれど、文が何か指示を出す事もなくて。
 というより、文は先程からずっとノートパソコンに向かったままで、顔すら上げようとしない。
 その事に、何かしなくちゃ、と焦ったつづりは、紅に言われた事を必死で思い出す。

 ええと、お食事……はまだだよね。
 文様からの指示がない時は、下がって通常業務……ってダメダメ!今来たばっかりなんだから。
 あとは、あとは……そう、掃除だ!お部屋の掃除をしなくちゃ。

「あの、では、掃除を致しますね」
 つづりはなるべく小さな声で、文にそう声を掛ける。
 大きな声を出して沈黙を破る度胸はつづりにはなかったし、紅からも、文は静かな空間を好む方だ、と聞いていたからだ。
 元々静寂だった空間だった為、つづりの声はちゃんと届いたらしい。
「ん……」
 了承を意味するのであろう僅かな返事が返ってきた。


 取り敢えず、つづりはモップを持ってきて、黙々と掃除を始める。
 あまり物音を立てないように、静かに丁寧に。
 そうしてなんとか緊張にも慣れた頃。
 つづりは改めて部屋の中を見回す。
 すると、紅の言葉は比喩でも例えでもない事が分かった。

 大袈裟なんかじゃなかった。
 この部屋、本当に書店か図書館みたい……。

 文の部屋は、入ってすぐに、まるで応接室のように対面式に置かれたソファとローテーブルが目に入る。
 その奥はテラスに出れるのだろう、床まで届くカーテンの引かれた窓があって。
 右を見れば、恐らく食事用に置いてあるのだろう、小さな椅子とテーブルが手前にあって、その奥にベッドが見える。
 壁には洗面所などへ通じるのであろう扉があって。
 それだけなら普通の部屋と同じだろう。
 だが左を見れば、図書館のように配置された本棚があって。
 たちまち普通の部屋とは異色だという事が分かる。
 しかも文の部屋は、真ん中より右寄りに扉が配置されているから、本当に部屋の半分を本棚が占めているのだ。

 それにしてもこの部屋、ちょっと寒いかも……。

 本棚に圧倒されつつも、部屋の温度の低さにつづりは体を震わせる。
 一体エアコンの温度設定を何℃に設定してあるのだろうかと、それとなく確認するが。
 室温はあろう事か16℃に設定されていて、おまけに除湿機まで置いてある。
 これではまるで、この部屋の中だけ冬の始め頃みたいだ。
 文は一体何を考えてこのような温度設定にしているのだろうか?
 彼が暑がりだというのであればまだ説明は付く。
 だが、文の格好は冬と同じく、少し厚めの生地を使った長袖で。
 つづりは首を傾げる。


 そのまま黙々と掃除を続けながら、窓の所まできた時。
 紅の言葉を思い出した。
『本当はお体の為にも日光を浴びるのが好ましいのだけれど……』
 だが紅のそんな心配とは裏腹に、きっちり閉じられたカーテンは遮光性で。
 部屋の中は本棚以外の場所は電気が点いている為明るいが、外の光が入ってこないのであれば、時間の感覚すら分からなくなりそうだ。

 文様、もしかして日光が嫌いなのかなぁ……?


 そんな事を考えながら掃除を続けて。
 つづりはふと、ある事に思い至った。

 ……あれ?でもこれって……。
「理想的な本の保存方法……?」
 無意識の内にそう呟き、本棚の本をそっと伺い見る。

 許可がない限り、本棚には絶対に触れない事、と言われた。
 にも関わらず、本には埃が一切ない。
 勿論、紅が掃除をしている可能性もある。
 だが、彼女の口振りではその可能性は低そうだ。
 という事は、文自身が掃除をしているという事だろうか?

 と、そこでつづりはある本に目を留めた。
「あ、章(しょう)の本だ……凄い、全巻揃ってる……」

 章、というのはつづりが好きな小説家の名前で。
 どんな人物なのかは全く分からない。
 だけど、その人の書く作品は、いつもつづりの心に響くのだ。

 透明に透き通ったような、だけど心が温かくなる言葉の数々。
 その表現は繊細で、まるで情景が今にも目に浮かんでくるような。
 何度も読み返したくなってしまう、そんな作品達。

 当然つづりは仕事中ながら、読みたいな、と思った。