こんな事、あっていいハズが無い。
 偶然選んだ下宿。
 偶然担任になった先生。
 なのにそれが、イコールで結ばれるなんて。
 これはもうある意味奇跡。
 だって有り得ないでしょ。ウチの学園、先生だけでも百人以上いるんだよ?
 しかも。
「……いいか?俺とお前は会ったばかりの一切何の関係もない赤の他人だ。間違っても学校の時みたく『先生』なんて呼ぶなよ」
 とか言い出すし。
 しかもかなり不機嫌そうに顔をブスッとさせて。
「え、何でですか?」
「いいから!……もし担任だなんてバレたらそれこそ何言われるか分かったもんじゃねぇ」
 心底嫌そうに直樹はそう言う。
 つまり、自分の学校での生活を身内に知られたくない、と。

 思春期の子供ですかアンタは。

「……じゃあ何て呼べばいいんですか」
「……直樹さん、でいいんじゃないか?早坂さん、なんて呼んだら全員反応するだろうが」
 成程、まぁ確かに。
「……はぁ」
 まさか自分の担任を名前で呼ぶ事になるなんて、思ってもみなかった。


 咲の下宿先のおばさん――つまり直樹の母親――は、気のいいおばさん、という感じだ。
「あらぁ咲ちゃん、ごめんなさいねぇ。びっくりしたでしょ?直樹ったら、急に帰ってくるんだもの」
「えぇ、まぁ……」

 はい、それはもう驚きましたとも。
 息子さんがいらっしゃるとは聞いていましたけど、まさか自分の担任とは思ってもみなかったので。
 ……そういえばこの家『早坂』でしたね。今更ですが。

 そんな事を思いつつも、隣にいる直樹に怒られるのは嫌なので、咲は曖昧に返事をしておいて、口には出さない。
「直樹も、帰って来るなら来るで連絡しなさいよ。いつもは電話しても帰って来ないくせに」
「……うるせー」

 あ。
 何か今の言い方。
 ……先生子供みたい。


 いつも壇上で教鞭を振るう直樹は、眉間に皺を寄せ、気難しそうな印象で。
 クラス担任としての直樹は『生徒の自主性を尊重する』とか言って、基本的には放任主義だ。
 それでもクラス内で何かあった時は、結構助けてくれたりもする。
 但し、その時は大きく溜息を吐いて苦虫を噛み潰したような顔を片手で覆って、『お前等なぁ……』と言いながら、渋々といった感じで、だが。


 だから、そんな直樹の本当に子供みたいな反応を見て、咲は思わずクスリと笑ってしまった。
「……どうかした咲ちゃん?」

 は!?

 急に“咲ちゃん”なんて呼ばれて、それが信じられなくて、思わず出しそうになった声を抑えて直樹の方を向く。
 そこで咲が見たものは。

 絶対零度の微笑を浮かべる直樹の姿だった。