その日は、あまりにも突然にやってきた。


「ただいま帰りましたぁ」
 下宿生活にも慣れ、気を紛らす為にバイトを始めた咲がその日帰ると、居間に居たのはおばさんではなかった。
「……せん…せ……」

 好きで。

 好きで。

 どうしようもない人。

「っ……!」
 直樹が何かを言う前に、咲はその場から逃げ出した。
「待て!」
 直樹が後ろから追い掛けて来る。
 突然の事に、せめて部屋まで逃げなくちゃ、と咲は思う。
 だが。

「逃げんなっ!……咲っ!」

 名前を呼ばれ、思わず咲は立ち止まってしまう。
「咲、話ぐらいさせろ」
「……聞きたくないです」
 何を話すつもりなんだろう。
 テストの事かな。
 それとも授業態度?
 例えどんな内容でも、今の咲は直樹の存在自体に傷付いていた。
「……咲」

 私はそんなに強い人間じゃない。

「言った筈です。名前で呼ばないで下さい」

 全てを心の奥底に押し隠して、何でもない顔なんて出来ない。

「咲っ!」
「っ!」
 怒鳴られて思わず肩が竦む。

 先生の声、イライラしてる。
 当たり前だ。さっきから私が先生を拒絶しているんだから。

「……」
 先生、どんな顔してるんだろう。
 私は先生に背を向けて俯いている状態だから分からない。
 気になるけど、振り返れない。

 すると、急に後ろから抱き締められた。
「……せん、せ……?」

「好きだ、咲。お前に避けられると、凄く苦しくなるんだ……」

 青天の霹靂とは、この事を言うのだろうか?
「悪かった。お前の気持ちに気付いていたのに、あんな事言って。でも、あれはお前に言ったんじゃない。……辛い思いさせて、ごめん」
「え……気付い、て……たん、です…か……?」
 気付かれていないと思っていただけに、咲は動揺する。
「……知ってたよ。お前がずっと俺を見てた事。……馬鹿だよなー、俺。咲に拒絶されて、初めて自分の気持ちに気付いたんだ」
 自嘲気味に話す声が物凄く辛そうで、咲は首を緩く横に振った。

 そんな事思わないで。

 何故か、そんな言葉が頭に浮かんだ。
「ずっと迷ってた。咲は生徒なのにって、何度も諦めようとした。……でも、出来なかった」
 抱き締められた腕に力が込められ、そこから温もりが伝わってくる。
 そうして体の向きを正面から向き合う形に変えられ、真剣な眼で問われる。

「咲。咲にとっての俺は誰?」
「……直樹、さん……です」

 嬉しかった。

 先生……ううん。直樹さんが、私が思っていた事を気付いてくれた。
 絶対にそんな事、無いと思っていたのに。
 いや、気付いて貰えるハズが無いと思っていたからこそ、余計に嬉しくて。

「俺も。俺が好きになったのは『俺の生徒の生田』じゃなくて『生田咲』っていう、一人の女の子だから」

 更にそんな事を優しい笑顔で言って貰えて。
 思わず泣いてしまっていた。
 直樹さんは困った顔で、それでもぎゅっと抱き締めながら、優しく髪を梳くように頭を撫でてくれた。
「泣くなよ、咲……」
「だ、だってぇ……」
 嬉しくて、涙が後から後から溢れてくる。
「咲、笑って?咲の笑顔が見たい」
 頬を伝う涙を指で拭いながら、直樹さんが微笑んでそう言う。
 私は凄く幸せな気持ちになって、自然と笑みが溢れた。