そうして次の瞬間、清良は走り出す。
「あのっ!」
大声で女将を呼び止め、振り向いた所で言う。
「アタシは春斗の連れの、鈴原清良っていいます!」
「……そう」
女将の冷ややかな視線に怯みそうになるが、清良はぐっと堪えて続ける。
「多分、春斗の従妹から何か聞いてるんだと思うけど……でも、それだけで判断すんのは、おかしいだろ!」
言った後で清良は、しまった、と思った。
ついつい口調がいつも通りになってしまった。
これでは意味がない。
そう思っていると、当然女将はそこを突いてきた。
「華蓮ちゃんから聞いていた通り、あまり春斗には相応しくない女性のようね。もうこれ以上、ウチの春斗に近付けないでいただけるかしら?」
見下すようなその視線と物言いに、清良はカッと頭に血が上る。
「相応しいってなんだよ!?そういうのは春斗本人が決める事だろ!」
「どうせ何か卑怯な手を使って春斗を脅しているんでしょう?そうでなければ貴女みたいな粗雑で礼儀もなっていないような人間、春斗が傍に置く訳がないわ」
汚らわしい、と言わんばかりのその態度に、清良は掴みかかりたくなるのを必死に堪えた。
暴力に訴えればそれこそ相手の思う壺だろう。
不良からはもう足を洗ったのだ。
それに、どんなにムカついても相手は春斗の母親。
そんな事をすれば、春斗が悲しむ。
「なぁに?その目は。嫌だわ、まっとうに生きられない人間っていうのはこれだから……行きましょう、春斗」
「……っ!」
視線を歪めてそう言った女将が春斗を促すのを、清良は爪が食い込む程に手の平を握り締め、唇を噛んで我慢しながら見ていた。
すると、それまで黙ってそのやり取りを聞いていた春斗が、女将の手を払った。
「は、春斗?」
慌てたような女将の声を無視して、春斗はそっと清良の手を取った。
そうして手の平に食い込んだ爪の後を見て、痛そうな表情をした。
それを見て、清良は慌てて手を引っ込める。
「こ、これは別に何でもないからっ……春斗が気にする事じゃ……」
そう言うと、春斗は何かを書いてから清良の手を引っ張り、女将の前まで連れて行った。
『この人は僕の大切な女性です。いくら母さんでも、侮辱する事は許さない』
その内容に、清良も女将も目を瞠る。
「春斗、どうして?こんな人、朝霞には相応しくありません。貴方には華蓮ちゃんがいるじゃないの。確かに年は離れているけど……みんなそれを期待しているのよ?」
その内容に清良は驚いた。
華蓮は来年ようやく高校生という年齢だ。
対する春斗はもう成人している。
自分とだって年は少し離れているな、と思うのに、さらに年下を将来の相手に望むなど……本人の意思を無視するにも馬鹿げている。
すると春斗は首を横に振って答えた。
『僕はこの旅館を継ぐ気はありません。華蓮ちゃんが僕を慕っているのは知っていますが、それに応える事もできません』
「で、でも春斗。ここならみんな貴方の声の事を知っているし……その方が暮らしやすいでしょう?私は貴方の為を思って……」
『声が出ない、という事に気を遣われるのは嫌なんです。でも清良さんは、ありのままの僕を受け入れてくれた』
「気を遣うだなんてそんな……それにその人だって、今に貴方を見捨てるかもしれないのよ?それだったらよく知っている私達といた方が……」
その言葉に春斗はすっと目を細め、今まで清良が見た事もないような冷たい表情をした。
『どうやらこれ以上ここに居ても、意味はなさそうですね。失礼します』
そうして春斗は清良の手を掴むと、踵を返して歩き出した。
「は、春斗!どこへ……」
後ろで慌てるような女将の声が聞こえるが、春斗は立ち止まる事も振り返る事もせずに、旅館を出た。
暫く歩いて、旅館が見えなくなった所で、春斗は立ち止まった。
『嫌な思いをさせてすみませんでした』
「春斗……」
『確かに女将という仕事柄、礼儀とかにうるさい人ではあるんですが……あそこまで頭が固いとは思いませんでした』
自分の母親を批難する春斗に清良は、自分は気にしてない、という風に手を振る。
「そんな、いいよ……アタシにとっては、あれが普通の反応なんだ」
『恐らく、華蓮ちゃんがあることないこと言ったのも原因の内ではあると思いますけど……』
「それは……まぁ」
『でも、もう清良さんに同じ思いを味わわせたくありませんからね。他の宿、探しましょう』
その発言に、清良は思わず縋るように言った。
「ダメだ!それじゃあ、春斗がアタシと同じになっちゃう」
その言葉に首を傾げる春斗に、清良は言う。
「春斗のお母さんは、春斗の事、大事に想ってる。アタシの親と違って……だから、春斗までアタシの家みたいになっちゃダメなんだ」
自分でも何を言っているのかよく分からなかったが、それでも清良はこのままじゃダメだと思って続ける。
「アタシは、もう親になんの期待もしてない。だけど、それって多分悲しい事なんだ。だから、アタシのせいで春斗まで同じになったらダメなんだよ」
言ってて清良は思った。
もしかしたら、自分は心のどこかで、正常な親子関係を望んでたのかもしれない。
子を想う親、というのに憧れていたのかも。
だから、春斗には同じ思いをして欲しくない。
『清良さん。また、酷い事を言われるかもしれませんよ?』
心配そうな表情の春斗に、清良はニッと笑ってみせた。
「春斗が、付いててくれるんだろ?」
すると春斗は一瞬目を瞠った後、優しく微笑んで頷いた。
「じゃ、行こうぜ」
そうして二人は、手を繋いで再び旅館へと足を向けた。
また何か、言われるかもしれない。
認めてはもらえないかもしれない。
それでも。
きっとこのままじゃ、ダメだから。